hirax.net::inside out::01月04日

最新記事(inside out)へ  |   年と月を指定して記事を読む(クリック!)

2023年12月 を読む << 2024年1月 を読む >> 2024年2月 を読む

2001-01-04[n年前へ]

リアルな追跡劇 

 地道な追跡というのはミステリー小説よりわくわくしたりすることが多い。「カッコーはコンピュータに卵を産む」なんかその最たるものだし、一橋文哉の「小説」なんかもそうだ。荒唐無稽な映画「コンタクト」を観ながらこの手の話をリアルに描いたら面白いんじゃない(少なくともごくごく一部の人には)かとふと思った。

exciteの自動翻訳サービス 

 を試しに使ってみた。とりあえず、「内容が日本語で読めないぞ」というメールをもらった時には、このアドレスを使うことにした次第。自分で英語版も書けば良いのだろうけど、それができたら…(リンク

2002-01-04[n年前へ]

上野の三叉路で 

 上野で飲んだ後。(リンク

Season of Dreams… in VenusFort 

 AKTEOの時計を見に行った。色々な人たちのシルエットが、それぞれとても良い感じ。(リンク)(リンク)(リンク

多角形から覗く顔 

 京橋の辺りで。。(リンク

菊姫 

 年初から上野駅で飲んで、さらに東京駅美少年で飲む。いつものように、とりあえず飲んで銘柄を当てる利き酒セットを頼み、初めて当たった。偶然か、これまでの投資のおかげか?今回は「美少年」「銀盤」「???」で、謎のお酒「???」は「真澄」で大当たり〜。当たった景品?として「菊姫」をもらう。で、気づくと、テーブルの上には升酒・コップ酒がたくさん…。(リンク

2003-01-04[n年前へ]

キャッチボール その2 

「(菊池寛の)真珠婦人は読みました」
「今時、千人に聞いても(真珠婦人なんて)読んでいないわよ」
 こんな会話が交わされているのは、北村薫の『六の宮の姫君』の中だ。ここで語られている菊池寛の「真珠婦人」は今では文庫本となって本屋で平積みになっている。北村薫も驚いているに違いない。時代の流れなんてそうそう予想はできないものだ。とはいえ、その後に
「テレビの原作にぴったりの本だと思いました。波瀾万丈ドラマが流行っていますけれど、新しく作らなくても『真珠婦人』をやればいい筈です」
と語られているのだから、決して北村薫の書いたことが的外れというわけではない。むしろ、的確だったと言うべきかもしれない

 この『六の宮の姫君』は芥川龍之介の「六の宮の姫君、あれはキャッチボォルだ」という(仮想の)言葉から、芥川龍之介と菊池寛の「キャッチボール」を描いていく文学・人生ミステリだ。鎌倉時代に生まれた「沙石集」を起点として、投げ返されていったボールの軌跡を遡っていくミステリだ。

 時に強い反発であったり、時に強い共感であったり、とにかく色んな理由で私達(少なくとも私は)は色んなボールを投げ返すわけだけれど、好きで曖昧でそのくせ直接的に投げ返すことができるぶん、掲示板よりはこんな「いろいろ」風のひとりごとが好きかも。

シンプルなリフ 

 なんだか、シンプルなリフが繰り返される曲が最近は流行っているのかな。A Thousand Miles Vanessa Carltonみたいに。あるいは、そんな曲ばかりが耳に染み入ってくるのかな。とにかく、今はシンプルなリフってなんだか気持ち良いな。またシンセをいじってみることにしようかな。懐かしのKORG M1の記憶を取り戻すために、まずは昔のマックを立ち上げなきゃ。

/dev/null 

 ある種のSPAMを/dev/nullへ直行と設定。

2004-01-04[n年前へ]

WEBページのサムネイル画像作成&データベースCGI "webnail.cgi" 

 Webnail2を少しいじって、「WEBページのサムネイル画像を作成するCGI」を作ってみました。例えば、"http://www.hirax.net"のWEBページのサムネイル画像を取得したかったら、

http://hirax.net/webnail.cgi?uri=http://www.hirax.net
なんていうようにして、CGIに『URLエンコーディングしたURL』を("uri="の後に)パラメータとして渡してやれば、その結果としてJPEG画像が返ってきます。サムネイル画像のサイズは180 px. * 180 px.です。

hirax.net 試しに、このページからそのCGIを操作してみれば、その出力画像などの感じがわかるかと思います。(ただし、CGIを直接操作する際には"http://hirax.net/webnail.cgi"のアドレスを使用して下さるようお願いします)。あるいは、このasahi.comのサムネイル画像 (http://hirax.net/webnail.cgi?uri=http://www.asahi.com)を見れば出力結果が判りやすいでしょうか。

 ちなみに、表示したサイトはデータベースに登録され。以降は定期的にサムネイル画像が更新されますので、サムネイル作成に若干時間がかかる(といっても4秒位だと思います)のは初回時のみです。つまり、逆に言えば一回登録されたURLは「定期的に更新されるサムネイル画像」を流用するため、必ずしもその時のWEBページの状態が反映されるわけではないことになります。とはいえ、一日一回程度の更新はさせる予定でいます。

伊豆箱根鉄道 

 伊豆箱根鉄道の踏切を越えて函南を過ぎた後に、車で谷間の集落からさらに奥へ入ったら、いつの間にか道の先が箱根旧街道らしき石畳に。

伊豆箱根鉄道






2005-01-04[n年前へ]

静岡・由比・田子の浦 

静岡・由比・田子の浦静岡・由比・田子の浦静岡・由比・田子の浦静岡・由比・田子の浦静岡・由比・田子の浦静岡・由比・田子の浦静岡・由比・田子の浦静岡・由比・田子の浦静岡・由比・田子の浦静岡・由比・田子の浦






広重美術館で「見当違い」 

版画体験コーナー青版画 静岡県 由比にある「東海道広重美術館」の入り口には「版画体験コーナー」がある。「広重の東海道五十三次の「由比」を青・赤・黒の三色の版画で再現し、三色重ね刷りすることで、浮世絵の版画(世界初のカラー印刷技術)を体験しよう」というものである。
 やってみると、二色目の赤の位置合わせに失敗し「見当違い」の版画になってしまった。しかし、久々の版画体験もなかなかに楽しい。カラープリンタが一般的になってしまった今日この頃、プリントゴッコで浮世絵を作るなんていうのも新鮮で良いのかも。
一色刷二色刷完成

Apple NTSC output 

Apple NTSC output.

「津波と人間」 

 新聞やテレビといった報道機関、あるいは、ネット上のさまざまなサイトでスマトラ沖地震に関する話をみる。「地震・津波に関する知識や予報・警告環境の整備によって災害を未然に防ぐ」というような言葉をよく見かける。来月の今頃は、そんな言葉をどのくらい見ることができるのだろうか。来年ならば、どうだろうか。再来年ならば、どうだろう。

「科学と科学者のはなし」 1933年3月3日、三陸沖地震が起きた。3千人の命が消えたこの地震・津波の直後に寺田寅彦が雑誌に発表した文章が「津波と人間」だ。この文章中で、寺田寅彦は「地震・津波に関する知識や予報・警告環境の整備によって災害を未然に防ぐ、という論」を挙げた上で、「しかし、年月を経るうちに人はその災害を忘れ、世代も移り変わり、その教訓は容易には生かされないだろう」と書く。つまり、「地震・津波が次にやってくる時には、人は前回の教訓をすでに忘れている、だからこそ災害が繰り返し起きるのだろう」と書く。その寺田寅彦が繰り返し唱えた思想を、一言で言えば、「天災は忘れた頃に来る(天災は忘れた頃にやってくる)」ということになるのだろう。

 「地震・津波に関する知識や予報・警告環境の整備によって災害を未然に防ぐ」というようなことは遙か昔から(寺田寅彦でさえ70年以上前だ)、何度も繰り返し言われたことだと思う。何度も繰り返し言われても、それは人はいつも忘れ続けるのかもしれない、と思う。「天災は忘れた頃に来る」という言葉、言い換えれば、「忘れなければ、天災は来ない」という言葉、は何度も繰り返し口に出されるべきだろうと思う。忘れさえしなければ、天災は来ないのだ。

 しかし、その一方で「忘れる」ということは人にとって自然で、何かしら生きて発展していくための原動力であるだろうとも思う。数ヶ月先、あるいは例えば来年に、地震や津波のことなんて忘れ去られ、今回の被害地が同じように人で賑わっているとしたら、それもまたとても自然なのだろうと思う。人が忘れることが「自然」であるならば、人が忘れることにより生じる災害はやはり「人災」でなく「天災」なのかもしれない。だから、「天災は忘れた頃にやって来る」のだ。


東海道五十三次「由井」の「過去」と「未来」 

 「左」が広重の東海道五十三次の中の「由井」、「右」が「由比」で今日見た景色。
東海道五十三次今日

2006-01-04[n年前へ]

「ブラウザのURL入力時にIMEを自動で切り替える」"IME Switch!" 

 「ブラウザのURL入力時」と「それ以外のとき」でIMEを自動でオン・オフするソフトウェアを作ってみました。名付けて、"IME Switch!"です。

しまったぁ。 ブラウザ上で作業をしている時に、こんなミスをよくします。それは、Googleツールバーで「日本語の単語」を検索した後に、アドレスバーでURLを直接入力しようとすると「日本語変換をオンにしたままだった…!」なんていう失敗です。あるいは、ブラウザの画面中で日本語を入力した後に、アドレスバーでURLを直接入力しようとして、URLが日本語変換されてしまった…、なんていうミスをしてしまいます。そんな時、「日本語のURLなんて使わないんだから、IMEの切り替えくらいしてくれ…」とブラウザに対して叫んだりするわけです。…といっても、叫んでいてもしょうがないので、そんなミスを避けるためのソフトウエアを作ってみたのです。

仕組み 今回作ってみたのは「ブラウザでURLを入力する部分では、自動的にIMEをオフにしよう」というソフトウェアです。URL入力バーとその他の部分との間でフォーカスを切り替えた瞬間に、IMEをオン・オフします。対応ブラウザはInternetr Explorer, Sleipnir, Sleipnir 2です。起動すると、タスクトレイに"IME Switch!"というアイコンが出現します。動作の一時停止や終了作業などはタスクトレイから行ってください。ダウンロードは下記から、です。今さっき作ったばっかりなので、動作検証はこれから…です。が、結構便利かもしれません。

 ○ IME_Switch_20060104.lzh (952 KB)

 なお、今回は他アプリケーションに対してフックの作業をするのが面倒だったので、ImmSetOpenStatusなどは使っていません。単純に、キーイベントを投げているだけです。そのため、使い方によって「オン・オフの状態がひっくり返る」ことがあると思いますが、その際は気分転換に?オン・オフを手動で一回入れて引っ繰り返して下さいな。とりあえず、「こんなソフトあるといいな」と思うものを試しに作ってみた、というところです。

日本語ユーザが抱えるハンデ 編 

 Tech総研ブログに「URL入力時にIMEを自動で切り替える」 IME Switch!を「日本語ユーザが抱えるハンデ 編」というサブタイトルで、多少書き直してみました。ほぼ同じ内容をなぜ?というのは、「ハンデ 編」というタイトルが答えてくれます。つまり、「ハンデ」にはプラスもあればマイナスもあるわけで、続きがある…ということですね。

日本語という非アルファベット言語を使う日本人にとって、こういった不便な状況が多々あります。…人を楽にするためのコンピュータが、なぜか人にストレスを与えることが多い今日この頃、こんな工夫はいかがでしょうか?

2008-01-04[n年前へ]

山と海と天文台 

今日見た景色今日見た景色今日見た景色今日見た景色






千円札を拡大して見る 

 日本銀行の千円札の説明を読むと、千円札の偽造防止技術の一つに「深凹版印刷」があって、「従来のお札よりもインキが表面に盛り上がるように印刷されている」という。そこで眺めてみた。すると、確かに濃緑色のインクが(他の色のインクに比べ)高々と盛り上がって印刷されている。その分、ちょっとインクが乱れて汚い感じにも見える。

千円札千円札千円札千円札新しい日本銀行券(千円券)の印刷開始と偽造防止技術について






「バベルの塔」と「宗教改革」 

 バベルの塔を描いたピーテル・ブリューゲルがネーデルランドに生まれた1525年は、ルターがドイツで宗教革命を始めた7年後だ。ネーデルランドでは新教のカルヴァン派が広まり、ついには旧教国スペインからの弾圧を受ける。そして、ネーデルラントの新教勢力は、旧教の支配から脱するためにオランダ独立戦争を起こす。それが、ブリューゲルが死ぬ一年前だ。そして、その結果ネーデルランドは南北に分裂し、現在に至る。

 そんなことが始まった時代、宗教戦争で一つの地方が二つに分かれていく時代にブリューゲルは生きていた。そんな時代を想像しながら、互いに言葉を交すことができなくなり、人々が離れ離れになっていくさまを描いた「バベルの塔」の絵を眺めると、やはり色々考えてしまう。

The






2009-01-04[n年前へ]

釣り用(偏光)サングラスを美術館に持って行く!? 

 光が物体を照らすとき、その表面(空気と物体の間)で反射する光は(反射面に平行な偏光方向である)S偏光の割合がとても高い。たとえば、太陽の光が水面を斜めに照らす時、水面で反射する光のほとんどはS偏光である。だから、日に照らされて輝く海面を目の前にした時でも、偏光サングラスをかければ、海の中を泳ぎ回る魚や海草をとても綺麗に見ることができる。

 下の動画は紙面上に見える反射光を、偏光フィルタを通して眺めると、偏光フィルタの方向によっては「反射光が消えて画像が色鮮やかに見える」さまを確認してみたものだ。



 たまに、ガラスに覆われた名画を目の前にしたとき、「あぁ、偏光サングラスを持ってくれば良かった」と思うことがある。絵画を覆うガラス面に写り込んだ照明を邪魔に感じるとき、邪魔な反射光を偏光フィルタで取り除きたくなる。しかし、そう思いつつも、いつもサングラスを持参することを忘れてしまう。

 もしも、釣り用(偏光)サングラスをかけて美術館に行って、ガラスに包まれた名画を見たらどんな風に見えるだろうか。ガラス表面で反射する邪魔な光を消すことができるだろうか。あるいは、それとともに画家のマチエールも見えなくなってしまうのだろうか。

2010-01-04[n年前へ]

さまざまなことを為(な)していくのは、次の世代のあなた方である 

 「直木賞-選評の概要」をとても面白く読みました。何かに対する選評、あるいは、コメントというものは、コメントの書き手自身を忠実に描きだすものだ、と思いながら読みました。

 この回に受賞した北村薫の「鷺と雪」(リンク先は著者インタビュー)というより、「街の灯 (文春文庫)」に始まり、「鷺と雪」に終わる北村薫が書いた三冊は、かつて北村薫が書いた「六の宮の姫君」と同じように、論文であり・物語です。物語であると同時に論文でもあるということは、北村薫の器用さを証明すると同時に、それは、北村薫が持つ「(頭で考え・抑えてしまう)ある種の不自由さ」を示してしまうということでもあるのではないか、と私は思ってます。作家には誰しも、「(こういうこと・風には)書かない」と決めていることがあるものです。

 だから、渡辺淳一の「お話そのものも、頭で作り出された域を出ていない」という評、あるいは、宮城谷昌光の「優雅さの対称となる醜悪さが淡白すぎて、その時代がもっているぬきさしならない悪の形がみえてこない」という評は実にもっともな意見だろうと思います。

 ただし、私は、「街の灯 (文春文庫)」に始まり、「鷺と雪」に終わる北村薫が書いた三冊を、昭和初期の物語とだけ読むのは「間違い」であると、確信しています。これの小説群は、明らかに、過去と同時に現代を描いた話であると思っていますし、むしろ、現代の読者に対して投げかけられたメッセージ・物語だとしか読めないからです。

――最後まで読んで不思議に感じたのは、ベッキーさん(別宮さん)の諦念です。「いえ、別宮には何も出来ないのです」「何事も――お出来になるのは、お嬢様なのです」という最後のセリフがとても印象的でした。彼女の、この無力感の正体は何なのだろうと。

北村:  それは「時代」でしょう。時代を、回避できない。当初から彼女をスーパーレディとして設定してあるのは、その、最後のセリフを言わせたいからなんだよね。スーパーレディが、しかし「何も出来ないのです」と告げる。それは、様々なことを為していくのは、次の世代のあなた方であり、読者である、ということをやはり言いたいから。
 だから、渡辺淳一の「舞台となる昭和初期の雰囲気が描けていない」という言葉には違和感を感じます。これは、昭和初期という時代が舞台であるけれども、メッセージを伝えようとする相手は、あくまで21世紀初頭に生きる若い人たちだ、と思うからです。

 そういうわけで、この選評の概要では、宮部みゆきの評(他の)に一番納得しました。「最後まで読んで不思議に感じる」という人もいれば(インタビュアとして、わかっているからこそあえて聞き言葉にさせた、という可能性も高いと思いますが)、宮部みゆきのように「解る」という人もいるのです。

宮部みゆき 評: ずっと不思議に思っていました。…今回、『鷺と雪』を読んで、初めて解りました。別宮は〈未来の(主人公の)英子〉なのです。だからこそ、終盤で別宮が「別宮には何も出来ないのです」と語る言葉が、こんなにも重く、強く心に響くのです。
 この「別宮には何も出来ないのです」という言葉の後に続く、「何事もお出来になるのは、お嬢様なのです。明日の日を生きるお嬢様方なのです」という言葉は、作者が、今を生きる読者に投げた言葉以外の何物でもない。

 ちなみに、ラストシーンに対して、井上ひさしが言う「こんな安易な手」ということが、実際には現実に(たくさん)あったことだというのが、参考文献を読めばわかる歴史の不思議さ、です。

2012-01-04[n年前へ]

同じバカなら、踊らにゃ損々!? 

 「男の子はバカ。そのまま大きくなるので、オトコという生き物も基本的にバカでヘン。女の子は意地悪。バカと意地悪が共に暮らす人間社会、いろいろあって当たり前」…そんな言葉を読み返すと、「そもそも、意地悪やバカってどういう意味だっけ?」と、根本的なところがわからなくなりました。そこで、辞書をひいてみると、こんな風に書いてあります。

バカ:サンスクリット語 moha の音写。無知の意。愚かな人。道理・常識からはずれている人。用をなさないこと。
意地悪:わざと人を困らせたり、つらく当たったりすること。

 サンスクリット語と言われると、何やら「ありがたいお言葉」のような錯覚すら覚えますが、そのお言葉が言うとおり、「無知」で「愚か」で「道理・常識をわきまえず」「役に立たないこと」ばかりしている自分を(イヤイヤながら)振り返ってみると、少なくとも「オトコという生き物も基本的にバカ」という投票箱に(自分に割り当てられた)一票を(やはりイヤイヤながら)入れざるをえないのかもしれない…という気持ちになってきます(いえ、オトコという生き物も、意地悪な部分をたんまり持ち合わせていると思いもするんですが)。

 オトコはどうせアホでバカ、となれば、「踊るアホウに見るアホウ、同じくバカなら踊らにゃ損々」…そんな声も聞こえてきます。そうはいっても、生まれがラテンな南国からほど遠いせいか、「見るだけのアホ」「勝手なことを呟くだけのおバカなコメンテータ」にもなってしまいがちの自分がいたりもします。

 …というわけで、そんなところを直すこと、つまり、「聞くだけ・見るだけ・言うだけのアホを脱皮して、踊るバカへと変身しよう!」が今年2012年の目標です。(アホ・バカという言葉が混在しているので、「バカ・アホ蝸牛考地図」を右に貼り付けてみました。アホもバカもタワケもダラも…色んな踊るアホウがいるものですね)

同じバカなら、踊らにゃ損々!?






2013-01-04[n年前へ]

2013年「”残り少ない”明けの明星」を目に焼き付けろ!? 

 金星は水星の次に太陽の近くを回る惑星です。 だから、地球から見ると、いつも太陽の近くに見えることになります。 太陽が地平線より高く昇っている昼間には、星を見ることはできませんから、私たちが金星を見ることができるのは、「金星の後を追いかけるように太陽が昇ってくる夜明け前の東空」か「太陽が地平線に隠れた後、まだ少し地平線より上に金星がいる夕暮れを過ぎた頃の西空」になります。 前者が「明けの明星」で、後者が「宵の明星」と呼ばれます。

 昨年、2012年は、前半が「金星が宵の明星として見える時期」で、後半は「金星が明けの明星として見える時期」でした。 下の図は、2012年の「日の出・日の入りの時間」と金星が見える時間帯(緑色で塗りつぶした部分)を描いたものです。 前半(下半分)は夕暮れを過ぎた頃が緑色になっていて、つまり金星=宵の明星が見える状態で、後半(上半分)は日の出前の時間帯が緑色(金星=明けの明星)が見えることがわかると思います。春が終わり・夏が始まる頃、宵の明星は姿を消して、明けの明星が見えるようになったのです。

 今年、2013年はどうかというと、今月中は(昨年後半に引き続き)明けの明星が見えるけれど、それ以降はほぼ宵の明星しか見ることができなくなります。 次に明けの明星をみることができるのは、ほぼ1年後、2014年が始まる頃、です。

 今月過ぎから、日の出時刻が次第に早くなっていきます。 そんな朝の時間に東の空に光る金星を、2013年には”もう残り少ない”明けの明星を眺めてみるのはいかがでしょうか。

2013年「”もう残り少ない”明けの明星」を目に焼き付けろ!?2013年「”もう残り少ない”明けの明星」を目に焼き付けろ!?