2001-03-20[n年前へ]
■GIRAFA 検索結果をサムネイル表示
以前、「WEBページを検索した時、その検索結果を小さな画像(サムネイル)で表示してくれるのって便利だと思わない?」と聞かれた(というかやってみない?とアドバイスされた)ことがあった。結局、なかなか進まなかったのだけれど、こういう便利なソフトは当然のごとく出てしまったようです。便利便利。ただし、ルートページ問題がなくなれば。ってことで、期待 > 研究中の方。
いまは、GIRAFAが作る画像キャッシュファイルでちょっと遊んでいるところ。from お笑いパソコン日誌(リンク)
2003-03-20[n年前へ]
■あなたの顔写真が入ったオリジナル切手シート
4月下旬から発売という「写真付き切手作成サービス」 残念ながら、「いわゆる」切手本体部ではなくて二人三脚シールみたいな感じだけれど、世界に一つがうれしいね、というまるでSMAPの「世界に一つだけの花」のような世界に一つだけの「あなたの顔写真が入ったオリジナル切手」
■24色肌色クレヨン
人それぞれみんな違う、十人十色、よりどりみどり、と言えばこんな「24色肌色クレヨン」黒・茶色・薄オレンジ・赤色…24色がどれもみんなそれぞれ違う、だけど「どれもみんな同じ肌色」だと知ることができる肌色クレヨン。
今日みたいな日だから、そんな肌色クレヨンを眺めてみるのも良いかもね。
2004-03-20[n年前へ]
■集合とその補集合の境界線をひく、ということ
センのパラドックスは、言い換えれば「万人に奉仕する社会はどうやっても作り得ず、一部の人間にとっての社会しか作り得ない」ということなのだろうか。そして「一部の人間」と「その補集合」を区切る絶対的な線を引くことはできず、誰かが…というおれカネゴンの「算数記」の文を読んでから、「センのパラドックス」を説明する『合理的な愚か者』へ。
定義域の非限定性(=どんな変なヤツもいるような社会?)であれば、「リベラル」的かつパレート的な(=どいつのわがままも聞きながら、みんなが満足するような?)社会決定はできないというその証明の解説は「はてなダイアリー」の「はてなダイアリー評議会」などの一連の動きを連想させ、さらに集合Aの補集合のさらにその補集合がその集合Aだと、なんとも当たり前のこともふと考えさせられる。集合Aになれなかったものがその補集合なのか、それともその補集合になれなかったものこそが集合Aなのか、消去法で決まる側はどちらなのか、とふと考える【補集合の補集合とはおれカネゴン】。
■ 35°N 135°E
緯度と経度の格子点で写真を撮り、それらの写真を集めた世界地図を作製するというdegree confuluence projectの日本を眺める。35°N 135°Eを眺めたりすると、松本清張のDの複合を思い出したり。 from COULD
■300系の車両
JRのダイヤ改正では補集合扱いになってしまう今日この頃。昔の「今日の必ずトクする一言」を読み直し、「耐え難い持続的な横揺れ」を回避すべく、自分用にメモ
300系車両では騒音防止のための巨大なパンタグラフカバーによる空力的揺動が大きく、それがボススタレス台車の横揺れ特性と相まって、特にトンネル区間で耐え難い持続的な横揺れを発生するようである。このため6両目と11両目はもちろん、その間に挟まれる7両目から10両目までが横揺れにさらされる。従って300系や700系車両では、先頭から2,3,4両目あたりがお勧めである。500系の場合はパンタのある5両目、12両目以外はどこでも我慢できる。ということは、禁煙という条件も加えると、上りの時は「13,14号車」、下りの時は「2号車」ということに。
2005-03-20[n年前へ]
■Ajaxによる円周率計算の分散計算
円周率の計算をAjaxを使って分散コンピューティング化した、というCalculate Pi with Ajax.
■続CANON EOS KISS Digital N 組み立て不良
結局、CANON EOS KISS Digital N 組み立て不良については、交換ということになった。販売店さんには迷惑をかけてしまうことになるが、とりあえず送り返す。
■MacエミュレータPearPC
Macintoshエミュレータでインストーラ付のPearPC 0.4pre (Limited Edition) with G4/Altivec Support.
2006-03-20[n年前へ]
■沼津千本浜
レンダラーを作り始める。ひとしきり作業した後、一休みして海を見に行く。デジカメで撮った写真が入っていたハードディスクCFカードが(今さっき)使えなくなってしまったので、携帯電話で撮影した写真を貼り付けてみる。
■「物語が作られる理由」と「虚無への供物」
今年1月までアレフ(旧 オウム真理教)の出家信者であったという松永英明氏が書かれたオウム・アレフ(アーレフ)の物語を、少しだけ読んだ。なぜ、「物語」と名付けつつ書くのだろうか、と不思議に思いつつ読んだ。なぜ、そんな風に不思議に感じたかというと、「物語」というのは結局のところ書き手のために書かれるものだ、という感覚が私にはあるからかもしれない。書き手自身、ないしは書き手と重なる何かを持つ人々に「物語」とが書かれて、そして届くことが多い、という単なる(あやふやな)経験則が私の心のどこかにあるからかもしれない。だから、「物語」と名付けられたこの文章が、誰に何のために書かれているかを、私は気にしてしまうのだろう。
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この文章を少し読み、さらにまた他の方の感想を少し読んでいるとき、私はどうしても、中井英夫「虚無への供物」をさらっているような気分になってしまう。まるで、「虚無への供物」に登場する青少年たちの台詞を読み直しているような気分に襲われる。理不尽なできごとや物語の作り手や読み手や…、今回、あまりに似通った構図・言葉・文章をさらい直しているような気分になってしまうのは、一体なぜだろうか。
「物語」というのが我々の魂にとってどれほど強い治癒力をもち、また同時にどれほど危険なものであるかということを… 「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」
■「24色肌色クレヨン」と「センのパラドックス」
from n年前へ.
「24色肌色クレヨン」黒・茶色・薄オレンジ・赤色…24色がどれもみんなそれぞれ違う、だけど、「どれもみんな同じ肌色」だと知ることができる肌色クレヨン。
定義域の非限定性(=どんな変なヤツもいるような社会?)であれば、「リベラル」的かつパレート的な(=どいつのわがままも聞きながら、みんなが満足するような?)社会決定はできない。
2008-03-20[n年前へ]
■「町の甍の乱反射」と「乱反射する友人」
日が傾いた時刻に、波立った水面を眺めると、水の上に輝く道が見える。川面・海面・湖面に太陽が足元から陽の方向へ、一直線につながって見える。そんなことを『「海面に写る太陽」の不思議』で書いた。その後、住宅街を見下ろしても、やはり、そういう「道」が見えた、という話を読んだ。
丘に上がってみると、眼下の住宅街の屋根の群れが細長く光っていた。海で日没を見る時のように太陽から道が伸びて見えている。
「甍の波と」
日が傾き始めた頃、高台に上って町を眺めてみた。すると、住宅街の屋根で日の光が乱反射し輝いている。その輝きは、住宅街の向こうにある河口の上、そしてさらに、海の先まで続いている。屋根の傾きに傾向はありつつも、やはりさまざまな方向を向いていて、いろいろな方向を向いた屋根が太陽の光を色んな方向に光を跳ね返している。あぁ、確かに、海も河口も町の景色も、みんな同じように乱反射した光を返している。
そういえば、『黄金の日日』や『落日燃ゆ』などを書いた城山三郎は「乱反射」というものが好きだった。城山三郎のいくつかの随筆を読むと、自分が思うことをそのまま写し返す鏡のようなものでなく、乱反射するものの方を好ましいものだと何度も書いている。
考え方も色々なことを言ってくれて、乱反射する友人とでもいいますかね。住宅街の屋根や水や風が作る乱反射面を見ていると、ふとそんな言葉を思い出す。そして、屋根の向きは、やはり南北向きが多いのだろうか、とか些細なけれど生活に密着しているはずのことに想像を巡らせてみたくなる。
城山三郎
これまで特に意識することもなく眺めていた町の景色、光る屋根の瓦にも、きらめく水の小波にも、光学や統計学といったものが、その姿を見え隠れさせながら、幕の内弁当のように箱にギッシリ詰められている。




















