2000-07-01[n年前へ]
■今日のいいなと思った一言
「表出から表現への変化」 表現したい何かという球を持つこと。そして、それをストレートの直球で投げるのではなく、カーブやフォークの変化球にする。その軌跡が「表現」となる。 鴻上尚史
2001-07-01[n年前へ]
■Planetary Icosahedrons
こんなのも見つけた。二十面体の惑星儀。(リンク)
■こんな一日
ちょっと日記っぽく書いてみよう。五時起床の四時間もかけて構成練りとプログラム作り。その後三時間ほど職場へ。職場には行動パターンが何故かよく似ていてよく会う某さんと、見かけによらずがんばるI君。その後気持ちの良いランニング。が、まだ昼の二時過ぎ…
2002-07-01[n年前へ]
■霧の中
昼休み、霧の立ちこめる中でホッケーのスティックのハンドリングの練習をした。足下しか見えない中で、黄色いボールだけを眺めているとなんだか落ち着く。
雨に濡れた蜘蛛の巣やクローバや色んな花(名前知らないからね)を眺めているのも、一人で眺めるにはもったいない景色。こういう景色は誰と見たい?
■ミサンガみたいな「赤い時計」
今日買ってみた。今日から、左手にいつもはめる。ミサンガみたいなものかな。(リンク)
■タップルーム
「だいーぶ以前に、千本浜の堤防の上で廃屋の写真を撮っているひらばやし氏をバイクからお見かけしました。あの辺りは、僕もお気に入りです。
沼津に美味しいビール屋があります。沼津港、コバルトアロー乗り場の正面の2Fタップルームというところです」
と、メールをもらった。うひゃー、恥ずかしー。気恥ずかしいー。立ち***とかしなくて良かったー。それにしても、よく私だって判ったなー、すごいなー。
何はともあれ、その「タップルーム」に行ってビールを飲もう。海を見ながら、ビールを飲もう。(リンク)
■色んな出会い
上の話で連想したのが、こんな話。以前、メールをやりとりしたことがある人と偶然千本浜ですれ違ったことがあった。といっても、もちろんその時判ったわけではなくて、「今日沼津の浜辺に行ったらホッケーをしていた人がいて…」というようなメールで判ったわけだ。
そして、そのほぼ一年後、今度はその人と長野の山奥ですれ違った。
■切ない歌詞。切ない詩。
世代的には結構若い感じ、かな。(リンク)
■ハイブリッド中国語練習帳
野島進著。
2003-07-01[n年前へ]
■あめ玉一個
ちょっと落ち込んでいるような子供を見かけた。子供だから、きっとあめ玉でもなめたら機嫌が直るのかな。それとも、知らない人からもらったあめ玉じゃぁ機嫌は直らないのかな。どうだろうな?
もし、あめ玉をあげてこの子の機嫌が直ったらきっとぼくもちょっとうれしくなりそうだから、あめ玉一個あげてみる。
■GNU GPLで描くストールマン
何故か読むとほっとするhyuki.comを読んでいると、GNU GPLをアスキーアートにしてストールマンを描いたものがあった。これはなかなか面白い。色んなバリエーションができそう。
2004-07-01[n年前へ]
■Photoshopアイコンピンバッジセット
Photoshopアイコンピンバッジセットのプレゼント・キャンペーン。
■「青いバラ」
私は、老人にたずねた。「あなたは、青いバラをつくりたいと思ったことはありますか」 大切なことを聞くとき、人はあらかじめ、期待する答えを持っているものだ。 青いバラをつくろうだなんて邪道だ、くだらない質問をするなと泰然と答えてくれるものと想像していた。 そして、なぜそう思うのかをたずねるつもりだった。だが、老人の言葉はそうではなかった。「青いバラができたとして、さて、それが本当に美しいと思いますか」from 青いバラ
文章を少し変え「青いバラ」という言葉を挿入し、それに対応して「青いバラ」という言葉に相当するリンク先に変えました。 とはいえ、以前のリンク先とそれほど変わってはおりません。現在のもので問題がないようでしたら、このリンク先に関しては残しておいて頂く方を希望致します。 理由は、「青いバラ」は良いニュースとしてだけ受け止めないようなリンク先を残しておきたいからです。
2005-07-01[n年前へ]
■「瞳を開いて眺める」の3つのニュース
Tech総研で「瞳を開いて眺める」の3つのニュースが公開されています。
そういえば、このTech総研のコーナーは一本のニュースにつき200文字くらい、という目安を言われていました。…しかし、ふと気づくと(意図的に?)、かなり長く書くようになっていました。今回の『みんなが笑顔の「ベストショット検出技術」』なんか800文字くらいありそうです…。それに、『実は3倍の大きさだった「アンドロメダ座大銀河」』なんか、原稿用に計算までしてしまいました…。ほとんど気分はミニミニ「できるかな?」です…。同じように、冒頭の「ひとこと」も全然一言でなくなっています。ちなみに、今回の「ひとこと」の送付原稿はこんな感じでした。
液晶画面をペンで操作することができる(もちろんキーボードでも操作することはできる)Tablet PCを使い始めた。すると、「マウスで操作する」という作業はやはり「ペンや自分の手を使う作業」のフェイク(偽物)に過ぎなかったんだなぁ、と今さらながらに気づかされた。未来のPCのインタフェースはどんな風に変化していくのだろうか?
これでは、全然「ひとこと」ではないですよねぇ…。
■野良犬のバラード
最近は出張ばかりで、出張がない日の方が珍しくなってしまった。出張が頻繁にあるというわけではなかった頃は、キオスクの前にたくさん並べられている新聞の見出しや、列車の中の吊り広告を見るのが楽しみだった。ここ2,3日は「杉田かおる」の見出し記事に興味を惹かれた。そこで、「杉田かおる」の特番を眺めてみることにした。
すると、杉田かおる主演の実演ドラマ中で、「勝ち犬セレブから負け犬に戻れるかしら?」と聞く杉田かおるに、おでん屋のオヤジが言ったセリフが面白い感じだった。
勝ち犬とか負け犬とかじゃなくて、野良ってどうですか? 杉田かおる緊急企画 「さよならセレブ」
2007-07-01[n年前へ]
■旧約聖書と「あぼーん」
先日、「文学を科学する」という本を読んで、こんな一節に惹かれた。
文章は書かれて発表されたとたんに、書き手の所有物ではなくなるのです。(その一方で)作者の手を放たれたテキストは読者の所有物になるのではありません。それは、…膨大な言葉同士の関係に入り込むのであって、つまり作者のものでも読者のものでもなくなるのです。作者のものなら作者の解釈だけが唯一の真実ですし、読者のものならどんな恣意的な解釈も可能です。しかし、それが作者のものでも読者のものでもないからこそ、文学作品は常に新しい読み方ができる、いいかえれば繰り返し読むことに耐えられるものになるのです。 「文学を科学する」 P.65 - 66この一節を読みつつ、ふと、巨大掲示板 2ちゃんねる の「あぼーん」という言葉を思い出した。問題がある発言が書き込まれた時、書き込みの題・内容・日時などがすべて 「あぼーん」と書き換えられるシステム、その「あぼーん」の語源を考えた時に考えたことが蘇ってきた。
投稿者の力が及ばない権限者が行う削除行為から、2ちゃんねる外の自分の発言やアカウント、またクルマやパソコンなどの私有物への表現にも使われ、あらゆる事柄に存在する「破損」「消失」「死」についての婉曲表現として「オレのPCがあぼーんした」などと動詞的に使われるようになった。はてなダイアリー あぼーんとはあぼーんの語源を検索すると、"a bone" (骸)という説や、マンガ「稲中卓球部」のセリフという説など、さまざまな説が出てくる。もしかしたら、作り手"ひろゆき"が異なる語源を語ったのかもしれないし、あるいは、たくさんの読み手たちが新しい解釈を、いつの間にか作り出していったのかもしれない。そんなたくさんある"あぼーん"の解釈の小さなひとつ、私が考えた"あぼーん"の語源は、こんな話だ。
いつだったか、旧約聖書の解説書を読んだ。そして、創世記 第四章 「カインとアベル」の中に出てくるカインの過失・罰を意味する言葉が、本来のヘブライ語の聖書では「アボーン」という言葉だったということを知った。兄カインが弟アベルを殺した罪、その罪が故に、安住の地エデンから「エデンの東」へ追放されたことなどを一語で表現しているのが、ヘブライ語の「アボーン」である。その言葉を見たとき、これはまるで2ちゃんねるの「あぼーん」のようだ、と感じた。問題のある発言を掲示板の外へと移動させる「あぼーん」と、ヘブライ語「アボーン」は、三千年も時を隔てているけれど、不思議なくらいよく似ている。
初めに言葉があった。万物は言葉によって成った。言葉によらずに成ったものは ひとつもなかった。 新約聖書 ヨハネ福音書「文学を科学する」を読んだ頃、「インターネットのコメント・システム、異なる人たちが、時事についての意見を書き込むような場」から何が生み出されるのか、あるいは、どんな問題が起きてしまうのかを考える文章をよく見かけた。そういった文章を読みながら、同じ時期に旧約聖書と「あぼーん」について考えていたせいか、思い出したのが「全体は部分の総和以上のものであるか?」という、こんな文章である。
聖書は部分の総和以上のものであるか? もちろん。さまざまな物語や詩、それに異なるものの見方の混合が、個々の作者の夢にも思わなかったものを産み出した。「旧約聖書を推理する 本当は誰が書いたか」 R.E.フリードマン P.323
2008-07-01[n年前へ]
■偽装耐震計算ビジネスホテルから眺めた「合成写真」の景色
「山腹の上に月が魅力的に佇む景色」を写真で撮ろうとすると、とても大きく見える月が不思議なくらい小さく写真に映っていることに驚かされます。たとえば、「素晴らしく綺麗な景色」は写真に撮れないに張り付けた写真の中に映っている月は、本当に小さな点に見えています。けれど、その景色を前に眺める月は、もっともっと大きく見えたのです。カメラの中の幾何光学的な現実と自分の心の中に映る景色との違いには、本当に驚かされます。
右の写真はいつだったか新大阪のビジネスホテルから撮影した写真です。この写真がどういうものであるかをもう少し正確に書けば、夕日に向かって飛んでいく飛行機と夕陽と夕方のビル街を、画角を変えて連射撮影した3枚の写真を合成したものです。この写真は合成写真です。
合成写真ですから、この景色を「ニセモノ」だという感じる人もいるだろう、と思います。けれど、ビジネスホテルの窓から私が眺めた景色は、そのままの撮影写真には映っていないように感じたのです。むしろ、この合成写真の方が、その瞬間に「ビジネスホテルの窓から見た景色」を写しているように思います。
「夕日」「飛行機」「ビル街」のそれぞれを、単独にファインダーの中に収めた時には、それほど違和感は感じません。けれど、目の前に広がる景色を一枚の写真に収めようとした途端に、なぜだか心の中に映る景色と撮影された画像ファイルに映っている景色が、まったく違うものになってしまいます。それは、不思議なくらいの真実です。
私が泊まったこのビジネスホテルは、ビル設計の耐震計算に偽装があったということで、この後しばらくして営業を止めた、と聞きました。そのニュースを聞いた時、そのビルの窓から眺めた魅力的な景色、そしてその景色を描いた「合成写真」を思い出しました。
ごく狭い画角で対象物を正確に切り取った写真、広い画角に世界を映しこんだ写真、色々な景色の切り取り方があります。すべてを上手く描き出すことは難しいのだろう、と思います。きっと、すべてを満たすような切り取り方・描き方はないのだろう、とも思っています。その不完全さに、いつも切なさと魅力とを感じます。





