hirax.net::inside out::*-07-05

  

2001-07-05[n年前へ]

銀の鈴

のベンチの辺りだけが圏外(cdmaOne,NTTともに)なのは最悪。ベンチに座ってると完全に圏外。ほんの数メーター離れればOKなんだけど…。待ち合わせの時いつも不便。

秋葉原の駅前の広場で

 沼津でホッケーをやってる人を見かけた。ちょっと、面白い。世界は狭いなぁ。

今日のリンク 情報処理学会 人文科学とコンピュータ研究会

リンク

2003-07-05[n年前へ]

かつおロボ

 かつおの一本釣りをひたすら続ける「かつおロボ」 何だかちょっと面白い。

2004-07-05[n年前へ]

I actually do believe everything is possible.

I actually do believe everything is possible.I don't believe everything is easy,I don't believe everything happens right away,and I certainly don't believe that things happen without a lot of hard work by a lot of people who are inspired and focused on a worthy and common goal. But I do believe we can create a future of non-zero sum games. CARLY FIORINA May 6, 2004

2005-07-05[n年前へ]

下丸子

 計算の高速化手法(超入門編)を学んでいると、パズルのように楽しい。もし、計算プログラミングを仕事にしていたならば、とてもはまってしまいそうだ。もちろん、そんな風に面白く見えるのはきっと超入門編だからなんだろう。
 今回のようなItanium 2 でなく、次はPowerPC G5の場合も学んでみたくなる。



下丸子






スクロールバーに見る「未来の予感」 その3

Google Arabic on IEGoogle Japan on IE スクロールバーに見る「未来の予感」 その2に書いたように、『スクロールバー類はその言語の「上手」に位置するのが自然である一方で、同時に「スクロールバー」類は本文よりも「利き手側」に位置する方が自然』に思えます。
 そんな「自然」を実感するのが、アラビア言語系のページをInternet Explorerで眺めているときの「不自然」さです。右の二つの画像はnakama yukie"をGoogle Japanで検索をかけた結果と、同じくGoogle Arabicで検索をかけた結果です。アラビア語表示のGoogleをInternet Explorerで眺めていると、スクロールバーが本文左側に位置してしまいます。その結果、不自然な操作感になります。もちろん、Tablet PCを使っていたりすると、スクロールバーを操作しているときには(右腕に遮られて)全く本文が見えなくなってしまいます。本文をスクロールしたいのに、その肝心の本文が見えなくなってしまうのです。まさに、本末転倒です。

Google Arabic on Fire foxGoogle Japan on Fire fox 一方、Fire foxではそんな風にはならないので(右の二枚のスクリーンショット参照)、アラビア語圏のページをTablet PCで眺めるときには、Fire foxを使うようになりました。アラビア語圏の右利きの人はTablet PC上でFire foxを使うと、とても気持ちよい操作感になりそうです。『スクロールバー類はその言語の「上手」に位置するのが自然である一方で、同時に「スクロールバー」類は本文よりも「利き手側」に位置する』わけですから。同じように、左利きの日本人がこんなテクニックでも使って、右側にスクロールバーを持って行ったInternet Explorerを使っていたりすると結構気持ちが良いのかもしれません。残念ながら私自身は右利きなので、その気持ち良さを実感することはできませんが…。

「理系バカと(存在しない)文系バカ」

ところが、文科バカという言葉は存在しないようだ。たぶん文科系の場合は頭に「文科」をつける意味がないのだろう。 小林和之 「おろかもの」の正義論 ちくま新書

2006-07-05[n年前へ]

「理系バカ」と"everything is"

 from n年前へ.

ところが、文科バカという言葉は存在しないようだ。たぶん文科系の場合は頭に「文科」をつける意味がないのだろう。
I actually do believe everything is possible.I don't believe everything is easy,

2007-07-05[n年前へ]

制御と物語

 制御工学の教科書のページをめくれば、どんなに少なく見積もっても、ページの半分ほどがフィードバック制御に関することに費やされている。
 フィードバック制御、それを実に大雑把に言うならば、「現在の状態に応じて"足りないもの"を補う」「"不安定なもの"を"安定"にする」制御だ。つまり、不安定性になっていまうものを回復し、安定にさせること、である。乱暴に言ってしまえば、世の中に満ちあふれている制御は、全部そんなものに見える。

 物語の基本パターンは、怪物退治と聖杯探求です。怪物は外側からこの世界を脅かすものです。英雄はその怪物を退治して、世界の秩序を回復します。一方、聖杯探求では、世界の秩序の中心が不意に消失し、世界が迷宮化してしまいます。英雄はその消失したものを探し出すことで世界の秩序を回復することになります。  「文学を科学する」 P.76 3.5 小説はいかに語るか
文学を科学する」を読みながら、人は「現在の世界の"足りないもの"を補い」「"不安定な世界"を"安定"にする」物語を読みながら、同時に、「現在の自分の"足りないもの"を補い」「"不安定な自分"を"安定"にしようとする」ものなのだろうか、と思う。心の中の足りないものを補い不安を和らげる、つまり、心を癒す、そんな制御を物語はしているのだろうか。

 「可観測行列行列が正則でなければ、現在の状態を正確に知ることはできないし、可制御行列が正則でなければ、任意の状態に制御することはできない」とクールに断言する制御工学の教科書を読みながら、次世代の制御理論は人や世界の制御・安定化をいかに実現するのだろうか?とふと思う。
心の癒しというテーマ、それはぼくにいわせれば、とても単純な物語です。物語というものはそういう性格をもっている。  「文学を科学する」 P.125 ストーリー性の重視
 心の制御工学というものがあるのなら、それは一体どういうものだろうか。

2008-07-05[n年前へ]

日本人が感じる「理想の体型」は7.7頭身!?

 イラストレーション・ソフトを作ったりする時のために、デッサンの勉強をしている。輪郭線に影響を与える人体骨格を改めて眺め直したり、あるいは、その骨格を包み込み繋いでいる筋肉の形などを見て、その構造に沿って人体を描こうとしてみる。そんなことをしていると、どのように頭部と胴体を分けた処理をすれば良いか、どのように輪郭線抽出の際の手抜きをすれば良いか、が見えてくるような気がする。

 人体の骨格や筋肉を眺めなおしていると、知らなかったことばかりで面白い。たとえば、男性の尾骨より女性の尾骨の方が後ろに丸く広がっていたり、骨盤の形・前後左右への広がり方が全然逆だったり…と当たり前のようにも思えるけれど、それらの骨格・筋肉図を頁の上で眺めなおすと、それはとても新鮮だ。

 そしてまた、「日本人が理想とするプロポーションは8頭身ではなくて、7.7頭身だ」といった言葉も、比較用の図を眺めながら読むと、実に自然に納得させられる。ギリシャ時代から理想のプロポーションは8頭身だとされてきたが、日本の女性誌人気モデルはおよそ7.7頭身ほどだという。理想プロポーションとされている8頭身のミロのヴィーナスを見ると、確かに、妙に頭が小さくて逆にやたらに胴体が大きく感じてしまい、「理想のプロポーション」には感じられない。ボッティチェリの9頭身のヴィーナス(の誕生)に至っては、大きな胴体に頭部がおまけのようについているように見えてしまう。

 日本人のプロポーションは平均6~7頭身だという。実際に比較用の画像を眺めてみると、なるほど、6.5頭身の女性像が一番魅力的に思える。それが、6.8頭身にもなると、ちょっと顔が小さく・胴体が大きく見えて、感じる「親しみ」が少し減じてしまうように見えてくる。5%の違いがそんな印象・感性的な大きな違いを生むというのが、何だか不思議で面白い。

 下の動画は、イラストレーション化したレッシグ教授の動画だ。全身像を見ると意外に顔が小さいのだけれど、この動画のように、胸から上だけを写した「頭身」を感じさせない画像からは、「親しみ」を強く感じるように思う。そういった感じ方への個人差・地域差・地域差といったものは、どういう具合になっているのだろうか。