2005-10-16[n年前へ]
■「ペース・メーカ配置と走者周りの気流」
マラソン競技のペースメーカ配置が適切であれば、空気抵抗の減少により4分30秒ほどの体力温存効果がある、という「ペース・メーカ配置と走者周りの気流」 走者たちの周りの気流を眺めていると、時速20kmという速さを実感できるかも。
■「長い文章を書くということ」
広い景色を写真に写したい、と思うことがあります。そんな時、超広角のレンズを持っていれば、話はとても簡単です。景色にレンズを向けて、シャッターボタンを押せば良いだけです。ところが、そんな超広角のレンズを持っていなかったら、どうしたら良いでしょう?そんな時はしょうがないから、少しづつ違う方向にカメラを向けて、何回もシャッターを押して、何枚も何枚も写真を撮ります。そして、最後にそんな写真を合成して、広い景色が写った写真を作ります。
ところが、「最後にたくさんの写真を合成」しようとすると、「それぞれの画像が(互いに)少しづつ歪んでいて、少しづつ写っているものが違っていて」なかなか上手く重ならないことに気づきます。それぞれの画像が少しづつ矛盾していて、一つの整った景色にしようとすると、なんだか食い違ってる部分がそこらかしこに現れてくるのです。例えば、右の写真を眺めてみれば、そんな矛盾だらけの写真であることがわかると思います。そして、広い・長い文章を書くということは、(少し)こんな広い景色が写った写真を作り出すことに似ている、気がします。
一言ふと漏らすコメントは非常に的確なものなのが普通です。だって、そのクローズアップされた狭い景色の中では特に「歪み」も「矛盾」もないのが普通ですから。だから、短い言葉・文章というのは、見事なまでに「その狭い世界」を写し取っているはずだと思います。ところが、もう少し広い世界を写し取ろうとすると、もう少し長い文章を使って大きなものを書こうとすると、途端に色んな「食い違い」が見えてきます。一枚の写真や短い言葉では、写真や言葉として上手く世界を(違うものに)写し取ることができたはずなのに、それらをたくさん組み合わせて一つのものにしようとした途端、たくさんの歪み・矛盾を眺めなければならなくなります。それらの歪みや矛盾というのは、もしかしたら、対象物の歪みや矛盾かも知れませんし、あるいは、逆に自分の中の歪みや矛盾なのかもしれません。あるいは、対象物と自分との間にある歪みや矛盾なのかもしれません。
それらの歪み・矛盾・食い違いなどを何とかつなぎ合わせて一つのものにする、というのが長い文章を書くということなのかもしれない、と思うことがあります。だから、長い・広い文章を書くということは、そんなたくさんの歪み・矛盾と向かい合わざるをえない辛い作業なんだろうな、と想像したりします。 ただ、書かなければ「その書く辛さ」に向かう羽目にならないのかもしれませんが、書かなければ「書こうとして始めて気づくこと」や「書き終えることでようやく発見すること」を見ることもできないもかもしれない、とも思います。
■「注意書きの印刷が動画に」
注意書きが動画になるという"Moving print adverts coming soon" "時系列動画"は"空間系列動画=立体物"も表現することができるのだから、色々できることが多いに違いない。
■『誰もが名も無き「大企業戦士」に支えられている』
TはMicrosoft Accessを知らなかった。私がBlogをやっている事も知らないだろう。もしかしたら「ブログ」自体知らない可能性もある。それでもやっぱりTは「優秀」だ。





