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2008-06-01[n年前へ]

(加速度センサ対応)体感・実感バストシミュレータのC++クラスソース 

(加速度センサ対応)体感・実感バストシミュレータを作る」のC++クラス・ソース(及びバイナリ)を置いておきました。本当に行き当たりばったりに書いたので、とても乱雑で汚く・遅い代物です。なお、使い方はこんな具合になります。

 Body body;
 body.move();
 float *mesh=body.fMesh;
 for(int y=-40;y<=40;y++)
  for(int x=-40;x<=40;x++,mesh++)
   //SurfacePlot(x, *mesh, y);
   // この*meshに高さが入っている
 中身は、粒子郡を拘束力で適当に包むと同時に外力を与えているというようになっていて、金子さんの水粒子プログラムの単純版です。

スクリーンショットスクリーンショットスクリーンショット






2008-06-02[n年前へ]

騒音メータ「きんりんくん」 

 町の中を歩いていると、横にきりんが立っていた。黄色くて、首が長い、あの「きりん」だ。動物園の柵の中でぽつんと立っている、あの「きりん」である。そんなきりんが柵の向こうで立っていた。
 正確に書けば、町角に騒音監視ロボット「きんりんくん」が置いてあった。「JIS C 1510 」に沿って、20Hzから8kHzまでの30~120dBの範囲を、分解能0.1dBで計ってくれる高性能の黄色いロボットである。

 「きんりんくん」というメーカ的なネーミングセンス、それどころか、そのネーミングそのままの形に作ってしまう、という辺りが楽しい。それに、何より、結構かわいい。

きんりんくんきんりんくん






2008-06-03[n年前へ]

「GPUを使った物理計算プログラム」と「スクリプト言語」 

 日経エレクトロニクスを読んでいると、「GPUを使った並列計算で物理シミュレーションを高速化」という記事があった。PC用のグラフィックボードに搭載されている描画処理LSI(GPU)での物理計算の解説記事で、流体などの挙動を粒子群として計算するプロメテック・ソフトウェアの計算ソフトウェアを題材に、GPUで物理計算をする効果や注意点などを解説したものだった。そういえば、つい最近、「NVIDAがGPUベースのレンダリングソフトNVIDIA Gelato Proを無償提供開始」というニュースもあった。

 ところで、GPUを使ったシェーダプログラム言語であるGLSL (OpenGL Shading Language)に触れたときに感じた新鮮さは、「GLSLで書かれたプログラムは、実行時にコンパイルされる」ということだった。シェーダのソースコードを書き換えると、そのシェーダを使ったアプリケーション実行すると、その実行時にシェーダプログラムがコンパイルされ動くのである。

 その感覚はとても新鮮で、「C言語のようでCでない変なスクリプト言語」をいじっているような面白い感覚を味わった。また、自然に並列計算される具合が、何だか非同期で動くアプリケーションをスクリプト言語で書く感じに似ているのだろうか、と感じたりもした。

 JavascriptやRubyや…といったスクリプト言語を使うプログラマが、GPUを使ったプログラムをいじってみると、これが結構ハマったり楽しむことができたりするものかもしれない。

記事記事






2008-06-04[n年前へ]

64GB ソリッド・ステイト・ドライブ 7万円 

 1.8インチ 8mm厚もしくは、2.5インチのハードディスクベイ用として使うことができる「ThinkPad 64GB ソリッド・ステイト・ドライブ」がサイト限定で、7万円でモニタ販売されている。ハードディスクを2台詰めるノートPCであれば、そして、開発アプリケーションなどの容量が大きいアプリケーションを入れる必要が無ければ、起動用のディスクとしてはSSD(ソリッド・ステイト・ドライブ)を使い始めても良いのかもしれない。

 読み書き速度は、「ランダム・セクター・リード:80MByte/Sec」「ランダム・セクター・ライト:30MByte/Sec」なので、普通のノートPC用ディスクからすれば、(読み込み時間にほぼ支配される)起動時間は半分近くになる 。データ書き込みが遅い分は、データなどを2台目のハードディスクに置いておけば、SSDへの書き込みを減らすことができる、という具合である。1スピンドルマシンではそういったことはできないが、2スピンドルマシンでHD×2台搭載という使い方をしている人も多いだろうから、そういう人はそろそろ人柱になってみても良い頃なのかも。

2008-06-05[n年前へ]

”本城直季”的トリック・アイ 

 ”本城直季”的なミニチュア的写真を雑誌やポスターなどでよく見かける。そんな”本城直季”的写真に綺麗に変換できそうな景色を見ると、カメラで撮影して、後でソフトウェアで処理をかけてみる。そうすると、”本城直季”的景色ができあがる。

 もしも「その場で”本城直季”的景色を眺めることができるメガネ」があったら、どんな感じだろう?目の前の広い景色の中から、ごく限られた部分にピントが合った、被写界深度の浅いミニチュア的な”本城直季”的景色を見ることができたらどんな感じだろう?

 そう考えているうちに、ふと気がついた。「大きく広がる景色中のごく限られた部分しか見えない」のが「私たちの普通の見方=目」なんだった、と気がついた。私たちは結構楽しくもミュニチュア視的トリック・アイを持っていたのだった。

”本城直季”的景色






2008-06-06[n年前へ]

体感・実感バストシミュレータの内側(粒子群)を見る 

 「GPUを使った物理計算プログラム」と「スクリプト言語」で読んだ日経エレクトロニクスの、「粒子が動いて流体を表現するさまを示した図」が見ていて綺麗だったので、先日作ったプログラム、粒子法を使った(加速度センサ対応)体感・実感バストシミュレータにも表面レンダリングだけでなく粒子レンダリングの機能を付けてみました(バイナリはここに置いておきます)。

 アプリケーションを実行させて、「皮膚」=表面層の内側を眺めたさまは下の動画のようになります。


2008-06-07[n年前へ]

「あだち充のH2」と「夏の始まり」 

 あだち充のマンガは読んでいた、けれど、「みゅき」や「タッチ」、もしかしたら「ラフ」くらいを最後に久しく読んでいない、という人もいると思う。R35世代、35-45歳くらいの人たちであれば、きっとそんな人が少なからずいると思う。

「たいていのスポーツは、勝った試合より負けた試合から多くを学ぶもんだろ」
 あだち充 「H2

 そんな人は、特に男性は、あだち充の「H2」を読むといいと思う。「何をいまさら当たり前のことを」と言われそうだが、「H2」は(今の時点での)あだち充の最高傑作だ。特に、コマに描かれる事柄から少し離れ、このマンガに描かれている人々を読み眺めてみると、本当にいい。このマンガに出てくる登場人物は、全員が何らかの敗者で、だからこそ輝いている人物ばかりだ。あだち充は「タッチ」までというR35世代の男性は、ちょっと読んでみるといい、と思う。

「俺たちもう終わっちゃったのかなぁ?」
「まだ始まってもねぇよ」
  北野武 「キッズ・リターン」


2008-06-08[n年前へ]

秋葉原という街で 

 秋葉原に行くようになったのは、三十年くらい前。国際ラジオのような店の前で色んな部品を眺め、役に立ちそうにない汚い部品の数々に、わけもなくワクワクした。何の部品も半田付けもされていないapple][のコンパチ基盤をロビン電子で眺め、武田鉄矢が笑う(けれど、間違っても武田鉄矢が使いそうにはない)「マイコン」を抱えるポスターを眺め、タダの緑茶自販機で喉を潤したりしながら、一日秋葉原で過ごす週末も多かった。

 そういえば、マイコンの宣伝ポスターで笑うのは、高倉健や斉藤由紀や……なぜかみんなマイコンを使いそうにない芸能人ばかり、だったような気がする。あれは、一体なぜだったのだろうか。

2008-06-09[n年前へ]

Photoshopプラグイン開発環境(PDLS)再び 

 Photoshopプラグイン開発環境 Photoshop DLL Linking System (PDLS) のページを(旧Pukiwiki)のファイルを元に書き直しました。PDFの説明ファイルの2004/08/07版はこちらになります。また、サンプルソース・バイナリファイルはこちらです。

 AmetMultiのモットーは「ATOKから何でもできる」でしたが、PDLSのモットーは「Photoshopから(その人のレベルに応じて)何でもできる」でした。(Photoshopの規約は気にせず)Cを使ってネイティブ・プラグインを気軽に書くこともできれば、GUIを使った連続作業などで自動的にマクロ関数(プラグイン)をお手軽に作ることもできる。その人のレベルに応じて、ステップアップすることができるPhotoshopのプラグイン開発環境というわけです。

 マクロ関数やネイティブ・プラグインを組み合わせれば、さらにカスタムプラグインを作ることもできます。また変数を使ったり演算や数式処理も使えて、NEWやDELETEといったマクロを使い、局所領域に対してだけ演算を行うこともできます。そして、マクロプラグインには自動的にGUIをかぶせることもできるのです(GUIコードを書かなくても、ダイアログで変数設定などを実行時にすることができる)。

 また、表計算アプリとの連携や鳥瞰図表示のプラグインもついている……というテキトーな機能てんこ盛り、の環境です。Photoshop Elementなんかで使うこともできますので、画像処理で遊んでみたい人は一度使ってみても良いかもしれません。いつものように、SYSTEMコールもできるプラグインなので、つまりは何でもし放題のプラグイン環境です。使ったことのないPhotoshopユーザ(ないしはPhotoshopプラグイン互換の画像処理ソフトユーザ)は一度遊んでみると良いかもしれません。

PDLSPDLSPDLSPDLS






2008-06-10[n年前へ]

「他人の気分推定機」と「カルマンフィルタ」 

 よくある制御工学の教科書がわかりにくい大きな理由は2つあると思う。まずひとつ目の理由は、読者としての私の理解力が低く、頭が悪いという根本的な問題である。そして、もうひとつの理由は、すでに綺麗に証明された問題を、その綺麗な数式の記述・順番で説明していく、という本が多いことにあると思う。その綺麗な証明にいたるまでの試行錯誤の説明がないと、「そういった数式をなぜ導出するに至ったか」といったことや、「その数式を使って、本来(さらにその先)何がしたいのか」ということがわかりにくくなってしまうと思う。ひとことで言うと、エレガントな証明とわかりやすい説明は違う。少なくとも、私のようなおばかな人間にとっては、そう思う。

 制御理論の教科書で、何だか読み飛ばしたくなる「状態量オブザーバ」「カルマンフィルタ」なども、それを例えるなら、単に「他人の気分推定機」に過ぎない。一見難しそうな言葉を使って書いてある数式も、そこに書かれている内容を例えていくなら「"直接知ることができない"他人の気分をいかに正しく安定して推定するか、というフィードバック機構」に過ぎない

 「他人の気分・他人の心の中」というものは、(少なくとも現在の技術では)外からは計り知ることができない。そこで、「この人はこんなことを考えているのかな?」と想像(推定)しながら話をしてみる。ところが、「その人の顔色や話す言葉からは、何だか”その人の気分”が私たちの想像とは違う」という感じがする。……それなら、「この人は”もう少し気分が悪い”と考えておいた方が良さそうだ」とか、その逆に「この人は想像していたより”少し気分が良い”らしい」と想像上の「他人の気分・他人の心の中」をちょっと訂正するのが「オブザーバ」である。

 そして、その人が結構ウソをつきがちだったりした場合の「他人の気分・他人の心の中推定機」が、カルマン・フィルタだ。「この人はこんなことを言っているけれど、(こういったジャンルの話では)この人は言うことと・心の中とこの人は違うことが多いから、ちょっと言葉を聞き流し気味に捉えておいた方が良さそうだ」といったことを考えつつ、「他人の気分・他人の心の中の推定量」を(より正しそうな)フィードバック補正をするのがカルマン・フィルタである。

 それだけのことなのだけれど、教科書の数式の羅列を追いかけている最中には、そういう景色が見えてこないことが多いように思う。そんな不満足の解決をするためには、「歴史の教科書のように試行錯誤の過程に満ち溢れた、決して”エレンガントな証明本”でないような教科書」をどこかで手に入れて読んでみるしかないのだろうか。……それとも、根本的な一番目の原因「読者としての私の理解力が低く、頭が悪い」ということを直すことしか解決策はないのだろうか。

2008-06-11[n年前へ]

PDLSを使ってフォトショップとパワーポイントとエクセルを自由自在に使い倒す 

 「Photoshopプラグイン開発環境(PDLS)再び」で書いたように、Photoshopプラグイン開発環境(PDLS)のモットーは「Photoshopから(その人のレベルに応じて)何でもできる」です。モットーをもう一つ付け足すなら、楽しく遊ぶこともできるし、楽に(画像処理っぽい)仕事もサクサクできる、というものです。

 ……と書いただけではわかりにくいので、「PDLSを使ってフォトショップとパワーポイントとエクセルを使って、画像を三次元的に表示し、断面輝度変化をエクセルで折れ線グラフににし、パワーポイントで資料を作る」というようなデモ動画を作ってみました。それが下に張り付けた動画です。

 Photoshopで画像を鳥瞰図表示したり、ピクセル単位のデータをセル形式で表示してエクセルにコピペしたり、そしてそれをパワーポイントで報告資料にしたり、といった作業がPDLSを使うと簡単にできる、かもしれません。

2008-06-12[n年前へ]

自分なりの「年表」を作って眺めて、納得してみよう 

 『理系サラリーマン 専門家11人に「経済学」を聞く!』で、経済学者の先生方に話を聞く中で、よく歴史を辿りながら話を聞いたように思います。「株式会社」の歴史、「消費」の歴史、「社会」の発展の歴史……色んな歴史を描き辿りました。そこで、単行本を作る時に、世界の社会背景変化や技術発展や文化の歴史などを、自分なりの歴史年表を描きながら眺めなおし、そして、講義の中で聞いた話や経済学者や事件などをその歴史に重ねつつ、読み直してみたのです。その年表を綺麗にしたものが、単行本の末尾にオマケで付けたものです。

 自作年表のドラフト版が下の画像で、その一部を拡大してみたものが右の画像になります。「年表」を作りながら、歴史の中で起きた大きなことの多くは、その時代を眺めてみると、どれも何だか当たり前で必然のことなのだなぁ、と今更ながらに感じました。

 たとえば、グーテンベルグが活版印刷を「発明」し、聖書が印刷され、プロテスタント系の人たちが印刷機で宣伝ビラを大量に作り、そして、宗教革命が起きていく。そんな歴史の中では、経済活動も科学技術も絵画などの文化も、どれも密接に繋がっていたんだなぁ、などと色んな事象の因果関係をとても自然に納得することができました。

 私たちは、因果関係を頼りに納得することが多いように思います。ということは、自分なりの「年表」を作り、その年表を作る過程で因果関係を納得することで、よくわからないこと・苦手なことも理解しやすいのかもしれない、と思ったのでした。




経済学年表経済学年表






2008-06-13[n年前へ]

「爆乳でなくなったら歩けない」を科学する 

 「爆乳」という言葉の名付け親と「メガ乳」という言葉の名付け親と話をした時に、「新鮮に聞こえるが普遍的にも聞こえる」話を聞き、面白さを感じた。そんなことを感じた話のひとつが、こんなことである。

 (IとかKカップとかいった爆乳の女優さんの多くが言うことには)「バストが小さくなったら、歩き方がわからない」「もう歩けなくなってしまうかもしれない」

 2kgほどの重量物を胸部に二つも可動する状態で歩こうとしたなら、「重量物の揺れ・振動」を抑えつつ、それでも抑えきれない重量物の揺れと共存した歩き方にならざるをえないはずだ。つまりは、大きなバストがあること前提の歩き方になっているに違いない。だから、「バストが小さくなったら、歩き方がわからなくない」ということになるのだろう。

 ところで、可動する重量物、端的に言えば・揺れるバストは、下に描いたようなバネ・ダンパモデルとして単純にモデル化することができるだろう。つまり、その図の下に書いた微分方程式で表されるダイナミック・システムである。あるいは、それを伝達関数モデルにまでしてしまえば、つまりはさらに下に描いた「2次遅れ要素」である

 電気のRLC回路(発振回路)なども、上の微分方程式と同タイプの式で表現される。そして、発振回路でコンデンサの容量(C)がいきなり小さくなってしまった場合などは、当然ながら発振周波数も変わり、その結果、回路の動きは大きく姿を変えることになる。つまり、「容量が小さくなってしまったら、(それまでの動かし方では)回路が動かなくなってしまう」という状態になるわけだ。

 つまり、上に描いた「メガ(爆)乳」を表現したダイナミック・システムと電気回路の間には、類似性(アナロジー)があって、それらは共通の普遍性を垣間見せるわけである。

 だから、実は、電気工学や機械工学のエンジニアたちこそが「爆乳の女性人たちが経験的に会得した歩き方の工夫」の一番の理解者になったりするかもしれない、と思ったりもするのである。「そうそう部品の定数がいきなり変わったら困っちゃうよね」と大いに共感できそうなきもするのだ。……もちろん、そんな妄想に「そんなわけない」とすぐに突っ込みたくもなるのだが。

バスト・ダイナミックモデル






2008-06-14[n年前へ]

続・秋葉原という街で 

 秋葉原の事件が起こって、もうすぐ一週間が経つ。その一週間の間に、出張帰りに現場で少し佇んだ。昔はよく通った町、秋葉原で倒れた人たちのことを少し考えた。

 あるいは、彼と同じように、同じようなコースを東名高速を車で走り、秋葉原に行った。そういえば、秋葉原で、ビル荒らしと間違われ職務質問に合い、結構長い時間、鞄の中身からポケットの中身までボディチェックもされたこともある。静岡 裾野インター近くの会社に通勤する人の行列や、バスを待ちの行列の前を通る朝が多い。だから、もしかしたら、彼とすれ違ったこともあるかもしれない。

 東浩紀という学者が、この件について書いた文章を読んだり、語る言葉を聞いた。「秋葉原という場所」を選んだ理由についてこの人が書く解説は、不必要に長く・小難しい言葉を使い、そして肝心なことから目を逸らしているように感じた。

 感じた「肝心なこと」を一言でいえば、「彼」にとっての「秋葉原」は「自分に似た人がいる街」だったのだろう、ということに尽きる。自分をわかってくれる人がいるかもしれない街、そして、自分と同じような「弱い」人たちが歩いている街、だと感じていたのではないだろうと、そんな奇妙な確信がある。

 渋谷のセンター街には疎外感を感じ、センター街を歩く人たちを倒す自信もなく、ましてや、新宿 歌舞伎町に突っ込んだ日には、逆にドス(小型の刀)で一発で倒されそうにも感じ、だから、そういった場所を意識上で選択肢としても考えることがなかったのではないか、と思っている。結局のところ、「秋葉原」は『自分に似た「弱い」人がいる街』だろうと「彼」は感じていたのだろう、と思っている。

このカッコ付きの「弱い」ということ「自分(それは逆に他人への認識と表裏一体である)」ということを掘り返していないように感じる評論には、「肝心なことから目を逸らしている」という印象を受ける。不必要に長く・小難しい言葉を重ねれば読み物にはなるかもしれないが、行動には繋がらない、と私は思う。

秋葉原






2008-06-15[n年前へ]

あなたから見た「異性」と「チンパンジー」 

 人の遺伝情報を担うのが染色体で、人は46本の染色体を持っている。一本の染色体は、さらに数多くの遺伝子から形成され、遺伝子はさらに数多くの塩基から形成されている。人はおおよそ2万7千個の遺伝子を持ち、それを塩基数にすると、全部でおおよそ33億弱ほどになる。こういった物質が人の遺伝情報を保持し・形作ることになる。

 46本ある染色体のうち、「男」と「女」(あるいは「女」と「男」)はそのうちの一本が違う。男と女で違う染色体が持つ遺伝子の数は、78個で、塩基数にすると5100個になる。だから、たとえば、「男」と「女」の間で違う塩基数を数えてみると、は遺伝子数で5100個/33億個=1.6%の遺伝子情報の違いがあることになる。

 ところで、人類とチンパンジーの染色体間で違う「塩基数」はおおよそ5.3%ほどだ、という話がある。ということは、あなたと「(あなたから見た)異性」の間の遺伝情報の違いは1.6%で、あなたと「チンパンジー」の間の遺伝情報の違いは5.3%ほどになる、ということになる。

 だから、あなたが「異性」との間で「違い」「違和感」を感じた時などは、「あなたと異性の違い」は「あなたとチンパンジーの違い」の1/3くらいにも相当する、と考えてみると楽しくなるかもしれない。つまり、目の前にいるのは「人間っぽいチンパンジー」だと考えてみるのである(それを逆にいえば、あなたが「相手」よりもチンパンジー寄りだというように捉えることもできる)。そうすると、相手が何だか可愛く思えてきたりもするかもしれない。そんな妄想をしてみるのも一興だと思う。

 ところで、1.6%や5.3%という違いは、塩基で数えたものである。もしも、違う「遺伝子」の数で計算すると、あなたと異性の違いは0.3%しかなく、あなたとチンパンジーの違いは83.1%にも達する。ここまで(違いの)比率が違うと、相手を「人間っぽいチンパンジー」だと考えるのは無理があるように思えてくる。もちろん、それは、当たり前の話であるような気もするけれど。

あなたから見た「異性」と「チンパンジー」






2008-06-16[n年前へ]

ブレーキングとコーナリングの荷重問題 

 車の運転をする時、「各タイヤへの荷重状態」が重要だ、とよく聞くような気がする。あるいは、スキーやスケートをする時も、前後左右への荷重状態、つまりは足裏感覚が重要だと言われる。そして、そういった荷重状態を決める大きな要因は、加速度吸収(サスペンション)と重心移動だとよく聞かされた(ような気がする)。

 車を走らせるときの荷重状態が前後左右に変化するというのは、直感的には理解できるようでいて、それをちゃんと説明しようとすると、結構難しいことに気づく。たとえば、台車を早く押していて、廊下の角を急いで曲がろうとすると、台車が外に倒れそうになることがよくある。それは、感覚的にはとても自然であるし、現実にも台車は外に倒れてしまう。けれど、その動きを論理立てて説明しようとすると、きちんと説明できない自分に気づくのである。

 そこで、車を(これい以上ないくらい)単純なモデルに変えて、ブレーキング時とコーナリング時に働く力、さらにはその力がサスペンションに働き、荷重状態を変える過程を図にしようと試行錯誤してみたのが、下の図である。簡単のために、前後(もしくは、左右のタイヤを90度直行した状態に固定するように繋ぐサスペンションがある、というモデルで絵を描いてみた。

 つまりは、ブレーキをかけた時に働く慣性力や、コーナリング時に働く遠心力が、90度直行する2本のサスペンションにそれぞれ分配される、というモデルである。こんな単純なモデルであると、図の右の方に書いたように、ブレーキ制動時には前輪が沈み・後輪が浮き、左コーナリング時には「右輪が沈み・左輪が浮く、ということになる。

 …が、実際にはこんな風な単純な構造の車はないので、慣性力や遠心力がどの部分にどう働き、どのような荷重状態になっているのかは、やはり今一つよくわからない。また、こういった単純なモデルでは、ロールやピッチやヨーといった、3軸回転を(全体として)表現することができない。誰か、自動車や台車スキーやスケートや…つまりは、ありとあらゆる「乗り物」の荷重状態と動きを簡単にわかりやすく単純明快に説明してはくれないものだろうか。

 「オーディオ」機器に関する説明が単純なようでいて、その説明を追いかけ・納得しようとすると難しさ極まりないように、「(趣味の車やスキーといった)スポーツ」に関する解説も、「なるほど」と納得するのは結構難しくて、落ちこぼれてしまうことが多いような気がする。

車の荷重問題






2008-06-17[n年前へ]

バスト体感モデル「システム同定」用自動振動シミュレータ 

 「粒子法」バスト体感モデルの「システム同定」用自動振動シミュレータを作ってみました。「粒子法」バスト体感シミュレータに対して、縦方向に任意周波数の揺れを強制的に与えたとき(ウィンドーを”そのものズバリ”強制的に揺らし)の振動状態を観察し、バストモデルの「システム同定」が行える!?というわけです。なお、揺らす入力振動周波数は、カーソルの「左」「右」キーで変えることができるようになっています。「右」キーを押していくと振動周波数が速くなり、「右」キーを押していくと逆に振動周波数が遅くなっていきます。

 このアプリケーション、つまり、「粒子法」バスト体感モデルの「システム同定」用自動振動シミュレータを動かした時のようすは、下の動画のようになります。揺らす周波数を変えてみると、バストの揺れが(まるで波が打ち消しあっているかのうように)全然起きない周波数や、あるいは大きく揺れが加速していく共振周波数がある、ということを体感することができる、かもしれません。


2008-06-18[n年前へ]

続・ブレーキングとコーナリングの荷重問題 

 「ブレーキングとコーナリングの荷重問題」で描いたような単純な「車モデル」はないだろう。しかし、これくらい簡単な模式図にしないと、その動力学を頭の中で追いかけることが難しかったりする。残念ながら、ここまで簡単にしてしまった「車モデル」では、すでに「現実」の車とはあまりに異なっているに違いない。しかし、単純なモデルでなければ全然理解できない……ということも、これまた哀しき現実なのである。

 上のようなモデルだと、たとえば、(上図の右下に描いたような)左コーナリング時には、右輪サスペンションには伸びる方向に働くようにして、その一方で、左輪サスペンションには、適度に縮むような制御をさせたくなる。そうすれば、左コーナリング時に、車から右に放り上げられるような心細い感覚を味あわないですむ。
 あるいは、ブレーキ制動時には、前輪サスペンションを縮まないように伸ばしつつ、後輪サスペンションは縮ませ、車が前に浮かび上がらないようにしたくなる。そうすれば、車から前前方に放り出されるような怖い状態になることもない。
 つまりは、サスペンションの動作を、その時々の状態に合わせて能動的に変化させるアクティブ制御(アクティブサスペンション)をかけたくなる。

 かつて開発が盛んだったアクティブサスペンションの能力は驚異的だったが、コストが高くなかなか製品化されない、という話を聞く。そのため、製品化されていたのは、たとえば、減衰力を能動的に変化させるというように簡易・省略化したセミ・アクティブサスペンションくらいだったりした。一度、フルアクティブサスペンションの車に乗って、その操縦感覚を体験したいものだ、と思う。

 ゲームセンターの体感カーゲームで、利用者が好きなように車の部品・構造・制御方式などを決めることができるようなものは無いのだろうか?あるいは、PCゲームではどうなのだろうか?もしあるのだとしたら、そんなゲームで遊んで見たい。

2008-06-19[n年前へ]

続・バスト体感モデル「システム同定」用自動振動シミュレータ 

 『バスト体感モデル「システム同定」用自動振動シミュレータ』が使いづらかったので、少しコードを書き換え・初期設定も変えてみました。(BustSimulator20080620.lzh 870kB) アプリケーションを動作させると、強制的に振動を起こし、入力振動→出力振動の関係を眺めることができます。アプリケーションを動作させたときのようすは、下に貼り付けた動画のようになります。


もちろん、揺れないのが一番いい!?というわけで、Sport Bra のBust Simulator(参考までに、Simulatorをいじっているさまを、下に動画として貼り付けておきます)を眺めながら、防振制御するにはどうしたら良いかを考えてみたりするのも、面白いかもしれません。


2008-06-20[n年前へ]

「巨乳ハンター」と「システム同定」 

 そういえば、「(加速度センサ対応)体感・実感バストシミュレータを作る」の動作画面を一目見て、”爆乳”の名付け親の方『カップでいうとFカップくらいの動きだ』と言ったのを面白く感じました。「見た感じ」で、どのような動きをするシステムであるか、あるいは、そんな動きをするのものの例としてはどのようなものがあるか、つまりは、ある種の「システム同定」を即座にできるのだなぁ、と感心させられたのです。さすが巨乳のプロだと思わされたのでした。

 「巨乳」といえば、昔懐かし「巨乳ハンター」を読み直しました。知らない人のために補足しておくと、巨乳ハンターは

羨まれる豊かに見える人でも、それぞれの悩み・苦労を抱えている
という奥深いマンガです。…と書いたら、きっと「そんなわけあるか!」と言われてしまうかもしれません。そこで、もう少し書き直しておくと、
羨まれる豊か(な胸)に見える人でも、それぞれの悩み・苦労を(その胸に)抱えている
ということになります(異論続出でしょうが)。

 ところで、巨乳ハンターを読み直していると、モーメントやら共振といった用語が時折顔を出してくることに(今更ながら)気づかされました。主人公が戦う相手のワザを科学的!?に解説する中で、そんな用語が出てくるわけです。というわけで、「巨乳ハンター」の秘技の数々を検証してみると、一体どんなことがわかるのだろうか、と考えてみたりしたのでした。

システム






2008-06-21[n年前へ]

オムニホイールで理想の「パック」を作ることができるか!? 

 「"オムニホイール"で理想の"ホッケー・パック"を作ることができるのだろうか!?」と、ふと考えた。氷の上でも、専用リンクの上でもなく、普通のアスファルトの上で滑らかに自然に動くホッケー・パック"を、"オムニホイール"を使えば作ることができたら良いな、と考えた。

 オムニホイールというのは、(omini=全方向)ホイール=車輪、つまり方向性を持たないというか全方向に進むことができる車輪である。オムニホイールを使った台車の動き(動画)などを眺めていると、極小オムニホイールを使い、さらに姿勢検知・駆動制御を極限まで駆使したならば、「まるで氷の上を滑って行くかのような自然な動きを(アスファルトの上で)するパック」を作ることができたりはしないだろうか、と考えたわけである。

 逆に言えば、そんなメカ搭載のパックが欲しくなるくらい、自然なパック操作をすることができなくて、悩んでいるということである。アスファルトの上でパックを打ってみても、進ませようとする方向にパックが上手く動いてくれることはほぼなくて、いつも思ってもいない方向に(ヘロヘロと)飛んで行ったりする。それどころか、飛ぶこともなく、コロコロと転がっていってしまうことも多い。

 理系心は気温とゴムとアスファルトの変形と…とかのせいにしたくなる。もちろん実際には単に下手だから、である。しかし、やはり、理系心はそんな物性変化のせいにしたくなったりするわけである。

 そこで、これなら、思った方向に飛ぶようなパックを作った方が早いのではないか、と思ったわけである。ざっと計算してみると、一個百万近くになりそうだけれども、そんな「(どんな状況でも)自由自在に特性を変えることができるパック」を作ってみたい今日この頃だ。

ホッケーパック






2008-06-22[n年前へ]

ホッケー・パックの飛び方のナゾ 

 (チューインガムで作った)ラトルバックではないけれど、実際に再現させることは簡単にできるのだけれども、その動きの仕組みを説明しようとすると結構難しいことということが多い。いや、多いどころか、上手く説明できないことばかりが世の中には満ちているように思う。単純に言ってしまえば、「実際に起こる現象を理解・説明する力」というのが不足気味なわけだ。

 そんな、「実際に再現させることはできても、その動きの仕組みを説明しようとすると結構難しい」ことの一つが、「ホッケー・パック」の飛び方だと思う。平面の上に置かれた扁平円板を叩くと、それが上に飛んでいく仕組みをきちんと説明しようとすると、これが結構難しい。ゴルフボールのように、ピンや芝生の上に浮いている状態の物体を打つのではなくて、あくまで摩擦抵抗の低い平面の上にある扁平円板を叩くのに、パックが浮かんで飛んでいく減少を定量的に話すのは、なかなかに難しいように思う。

 パックがホッケー・スティックのブレードの先で回転することで(決して小さくない)回転モーメントを持ち、その回転モーメントがあることが前提で、スティック・ブレードの下部がホッケー・パック下部を押し、ブレード面を転がり浮かぶようにして、クルクル横に回転しつつ、パックが斜め上に飛んでいく…というような説明はできても、それを数式を書きながら、単純な形で説明してみろと言われたら、言葉に詰まってしまうに違いない。(参考動画

 ヘロヘロと縦回転をしながら情けなくパックが飛んでいってしまうことが多いように、頭の中で計算をしようとしてみても、どうしても「ヘロヘロと縦回転をしながら情けなくパックが飛んでいってしまったりする」のである。現実にも、あるいは、頭の中のシミュレーションでも、鋭くゴール上方隅に決まるようなシュートが打てたら良いのだけれども。

2008-06-23[n年前へ]

列車の振動音・鼓動のような「リフレイン」 

 列車に乗っている時に聞く音のような、リフレインを持つ曲がある。たとえば、それは岡村孝子の「電車」だ。「電車」は、さならがらレールの繋ぎ目を台車が過ぎていく時に発する音のように、(サビ前の部分で)ギターがアルペジオを淡々と奏で続ける。そのリフレインに歌詞が重なることで、音を介して、通勤電車に立つ主人公たちが浮かび上がる。

誰もが自分の生き方を見つけて歩いてゆくけれど、 私は変わらずに私でいるしかできない。
岡村孝子 「電車」

 RADWIMPSの「オーダーメイド」も、何かの列車に乗っているかのように感じさせるリフレインを持っている曲だ。この曲の魅力的なリフレインは旋律ではなくて、2回目のAメロから刻み始められるリズムだ。間をおきつつ小刻みに続くドラムの音が、まるで、いくつかの車輪がレールの継ぎ目で音を立てているかのように響く。響くリズムに歌詞も相まって、時間軸に沿って進む長距離列車の姿が浮かび上がってくる、ように感じる。

 生まれる前の瞬間に、「人を作る誰か」が「どんな風になりたい?」と「僕」に訊く。「人を作る誰か」は、色んなことを次々と「僕」に訊く。

 「大事な心臓はさ、両胸につけてあげるからね」
 どんな風がいい?と尋ね続ける誰かに、「僕」は「何か足りない・欠けている」ことを次々と選んでいく。いつも「僕」は不完全な片側を、選んでいく。
 右側の心臓は要りません。僕に大切な人ができてそっと抱きしめる時初めて、二つの鼓動が胸の両側で鳴るのが、わかるように。

一人じゃどこか欠けてるように。
一人でなど生きてかないように。
 そして、「僕」は「人を作る誰か」に「どっかでお会いしたことありますか?」と最後に逆に問う。いつだったか、その「誰か」に会ったことがあるような気がして、「生まれる前」のさらに前だったか、あるいは「さらに後」なのか、「輪廻」か「デ・ジャヴ」か、「どっかで会ったことがある」気がして「僕」はその「誰か」に聞く。
どっかで、お会いしたことありますか?

 そういえば、「リフレイン」は「主だった旋律の前にそれと同等かそれより長い前語りを持つ楽曲の形式」を意味だという。けれど、「繰り返し・反復」を意味することも多い。小さなメロディが何度か繰り返されることを、意味することも多い。
 それは、まるでこの曲が歌う歌詞と小刻みに響くドラムの音が描き出す「不完全なものを繰り返し選択肢・回り続ける輪廻のような世界」を連想させる。

 「望み通りすべてが叶えられているでしょう? だから、涙に暮れるその顔を、ちゃんと見せてよ」
 「人を作る誰か」は誰だろう。それは、もしかしたらそこら中にいる誰かなんだろうか、とも思う。 PVを見ていると、さらにそんな気持ちが強くなる。
「だから、涙に暮れるその顔を、ちゃんと見せてよ。さぁ 誇らしげに見せてよ」
 「僕」が「人を作る誰か」になって、次の「僕」がまた「人を作る誰か」になり、そんな小さなリフレインが聞こえてくるような気がするこの曲は、「涙」や「誇り」や「望み」が混ざったスープのようなこの曲は、本当に素敵な曲だと思う。いいでしょう?

2008-06-24[n年前へ]

BOSEの「スピーカー」実験用ビックリハウス 

 スピーカで有名なBOSEの技術紹介資料を眺めていて一番おもしろかったのが、 マサチューセッツ州フレミングハムの本社内にあるという「90度グルリと回転させた」リビングルームである。 写真を見るとわかるように、その部屋に人が入った人は、通常であれば壁の部分を歩き回ることになる。 まるで、遊園地にあるビックリハウスのような試験室なのだ。

 この不思議なリビングルームは音響効果を試験するための部屋である。 たとえば、カーペットで敷き詰められた床が鉛直方向にそそり立っているため、埃やゴミがちり積もることがない。 だから、掃除機をかけたりする必要もないし、そのために部屋の音響特性が変わることもない。 また、カーペットの上を歩き回ることで、カーペットが踏み固められてしまうこともない。 あるいは、すべての家具は「床=壁」に完全に固定されているため、家具配置が変化し音響特性が変わることもやはりない、というわけである。

 こういった「既成概念に囚われないとても柔軟な発想」で作られたものを見ると、とても新鮮な驚きと楽しさを感じて、とても楽しくなる。そんな楽しさが未来を作っていくのかもしれない、と思う。

2008-06-25[n年前へ]

BOSEの「スピーカ」と「サスペンションシステム」 

 板を振動させ空気の波を作り、さらには人の鼓膜を揺らし、音を人に感じさせるのがスピーカだ。つまりは、「揺れを作り、人に振動を感じさせる」のがスピーカである。そんなスピーカの有名メーカのひとつがBOSEだ。BOSEは、そんな「揺れを作り、人に振動を感じさせる」のとは逆の「揺れを抑え、人に振動を感じさせない」装置も作っている。たとえば、ノイズ・キャンセラーは、騒音を打ち消すシステムである。大きく耐えがたい騒音に対し、逆位相の音波を重ねることで、「人に騒音を感じさせない」わけだ。

 他にもBOSEは「揺れを抑えることで、人に振動を感じさせない」システムを作っている。たとえば、ボーズ・アクティブサスペンションは「車の揺れを抑え、人に振動を感じさせないシステム」である。 これは、四輪の各サスペンションににリニア電磁モーターを装着し、路面状態・車体状態に応じて、 アクティブにサスペンションを制御することで、車体(とその中にいる乗客)に揺れを生じさせない、というシステムだ。

 もちろん、他の自動車会社もそういったシステムの開発はずっと以前から行っている。しかし、コスト面などの課題などもあり、(セミ・アクティブ制御のサスペンション搭載車は増えているが)アクティブ制御のサスペンション搭載車はなかなか一般化してはいないようだ。

 ボーズ・アクティブサスペンションは、このシステムを搭載した乗用車の動き・効果が公開されていて、とても面白い。コーナリング時の挙動などが、比較画像や動画などでわかりやすく説明されている(QuickTime動画)。荒れた路面の揺れを車体に伝えることなく、つまり、走る車(車体)の高さを一定に保ったり(QuickTime動画)、 あるいは、コーナリング時にも車体の傾き(ロール)を抑えることができているさま(QuickTime動画)を見ることができる。

 それどころか、たとえば下の動画の後半のように、道路の路面状況の先読みをして、”極めて”アクティブに車をジャンプさせるデモさえ行っている。現実の商品として価値を感じるかどうかは別にして、技術デモとして眺めてみれば、何度眺め直してみても本当に面白く楽しい。TVドラマに出てくる未来を目の前に「ほら、ここにあるよ」と見せられた気持ちになる。


2008-06-26[n年前へ]

各席独立「振り子制御」の自動車はいつか登場するか? 

 BOSEのボーズ・アクティブサスペンションの公開写真・動画などを見ると、車体を水平に保つように制御していることがわかる。だから、荒れた路面の上でも乗客は揺れを感じないことになる。しかし、コーナリング時を考えると、車に乗っている人は左右へ揺れ動かされるような遠心力を感じてしまう。

 もちろん、ボーズ・アクティブサスペンションのような、車体を水平に保つような制御をかけることがない場合には、つまり、カーブ外側に傾く(ロール)ような場合には、左右へ揺れ動かされるどころでなく、それと同時に、車の乗員は上下に変化する加速度を受け、上に投げ出されるような力を感じてしまう。カーブ時にカーブ外側上方に体が浮かび上がる感覚というのは、かなり気持ちが悪く・不安になるものでもある。逆にいえば、そんな感覚を受けた運転手はスピードを(車の動きへの不安から)当然落とすことになる。だから、乗り心地はそれに比べればずいぶん良いに違いない。

 カーブを高速に走らなければならない特急などでは、列車車体を水平に保つのではなく、カーブ内側に傾けるような「振り子制御」を行うものもある。カーブ内側に列車の車体を傾ければ、カーブ時に外に引っ張られる遠心力が乗客の足もとの方向へと働くことになる。ということは、振り子制御をすれば、左右に揺れ動かされる感覚が減ることになる。さらには、カーブ時に受ける感覚が、「カーブ外側上方に体が浮かび上がる」ようなものではなくて、「体が下方向に(抑え)固定される」ような感覚に変わる。つまり、乗客がより「安心」を感じるような動きにさえ変わる、ということである。

 それならば、車のサスペンションもそんな振り子制御をすれば良いか、というとそういうわけでもない。カーブ(コーナリング)時に「体が下方向に(抑え)固定される」ような感覚に変わってしまう、つまり、これまでとは逆に「安心」を感じるようになってしまう。これはあまり安全ではない。

 まるで、タイヤのグリップ性能が増したかのように、あるいは、路面に適切なハングがついているかのように運転者感じてしまったならば、コーナリング時に適切な減速を行うことをしなくなってしまう可能性が高い。運行速度が厳密に守られている列車と違い、車の速度制御に対する運転者の自由度が高い車では、車の運転者の感覚に対し「車の状態」のフィードバックを適切に与える必要があるわけだ。車の状態に応じて、適切に「不安」「安心」を運転者に感じさせるのが安全なサスペンション設計である、ということなのだろう。

 しかし、運転者以外の乗客にもそういった『車の状態に応じた適切な「不安」「安心」』を感じさせた方が良いかどうかは、判断が分かれるところだと思う。運転手と同じように車の揺れを感じた方が良いかもしれないし、それとは逆に、車の素直な状態を感じる・知ることもなくただ安心して乗車していることができた方が良いのかもしれない。

 もし後者の考え、つまり運転者とそれ以外の乗客が受ける感覚も違った方が良いということになるならば、運転手とそれ以外の乗客に対する姿勢・上下位置制御が違った方が良いということになりそうだ。つまり、車の(少なくとも)運転席が車体と独立に「振り子制御」されるような自動車を作れば良い、ということである。

 そんな運転席と乗客席が独立に動く「振り子制御」自動車はいつか登場するだろうか?それとも、「運転手(席)」というもの自体が未来の車には存在せず、運転はすべて自動で行われるようになっていて、そんな各席独立「振り子制御」などそもそも必要なくなっているのだろうか。

2008-06-27[n年前へ]

電子ペーパーを使ってみた 

 東海大学とブラザー工業が提供する電子ペーパーを試用する機会があった。A4より少し小さく、十字キー+中央ボタンという入力インターフェースを持ち、厚さは5mm程度で、非常に薄く感じた。

 表示コントラスト・解像度など、表示デバイスとしてはは十分満足できるレベルだった。後になって感じた要望としては、「(左右頁を折りたたむことで)A4 見開き2ページを眺めることができたら良いな」ということくらいで、不思議なくらい画質面には満足することができた。

 電源を確保するのが難しい場所で電池消費の心配をしなくても済まず安心して使うことができたことも、多分良い印象を持った大きな理由の一つだったと思う。逆に言うなら、消費電力とサイズという点こそが、この種の電子ペーパーの優位点だと感じた、ということでもある。

 あとは、紙と比べると「ユーザ・インターフェースがまだ自然に思えないこと」が解決されさえすれば、ぜひ使いたいと思う。

 もちろん、「書き込みができない」「必要な部分だけ破り取ったりすることができない」といったことも感じる。けれど、システム手帳やノートPC(電子ペーパーと似た点も多い、右画像のタブレットPCである)やカメラをいつも持ち歩いているので、そういった「自分が行う書き込みや切り取り」といった要望はそれらの機器で解決してしまえば良い。「その場でただ読むだけ」という用途向けに割り切ってしまえば、電子ペーパーも良さそうだ。その「割り切り」が可能になるためには、私たちのライフスタイルの変化も伴う必要があるとも思うが。

電子ペーパーThinkpad X61 Tablet






2008-06-28[n年前へ]

「Mathematica開発者のウルフラム」と「ファインマン」 

 今週頭に「数式処理アプリケーションのMathematicaが最初にリリースされてから、今日で20年たちました」と、開発者Stephen WolframからMathematicaユーザにメールが送られてきた。スティーブン・ウルフラムが28才の時の1988年の6月23日にMathematica 1.0 が出荷されたのである。

For twenty years we've pursued our long-term vision for Mathematica.

 Mathematicaは結局のところ、パターンマッチングを延々と行うプログラムである。データベースに登録されているパターン・規則にもどづいて、与えられた数式を置換していくことにより、Mathematicaは解(や所望の結果)を得る。

 ところで、「ファインマン物理学」で有名なR.P.ファインマンはカリフォルニア工科大学で1983年から1985年までの間、計算機科学の講義(ファインマン計算機科学)をしている。その頃の学生がスティーブン・ウルフラムである。

 ファインマンは「科学とは何か」の中で、「数学とはパターンにすぎない」「数学とはパターンを探すことだ」と端的に短く書き表している。この言葉を思い起こしながら、(おそらくそんな言葉を聞いていただろう)彼の学生でもあったウルフラムが「パターンマッチングによる数式処理アプリケーション」を商品化し市場に広まらせたのだ、と考えてみると何だか「面白い繋がり」を感じる。そんな繋がりを思い浮かべながら、Mathematicaの20年を集めたスクラップブック を眺めてみると、きっと楽しいと思う。

I'm looking forward to the next 20 years and hope that you'll continue to follow Mathematica on this exciting journey.

-- Stephen Wolfram

2008-06-29[n年前へ]

「素晴らしく綺麗な景色」は写真に撮れない 

 綺麗な風景を見てカメラのシャッターを押したい、と思うことがあります。それは、写真に撮って残したいという気持ちではなくて、目の前に広がる素晴らしい景色を他の誰かにも伝えてみたい、というような感じに近いように思います。心惹かれる景色であればあるほど、そんな景色を写真に撮りたい・誰かに伝えたい気持ちが浮かび上がってきます。

 けれど、それがどんなに素敵な景色だったとしても、カメラを取り出そうという気持ちが起きない状況が、いくつかあります。たとえば、「山腹の上に月が佇む景色」がそんな景色の一つです。写真を撮る気が起きない理由は、私の腕では「魅力的に浮かぶ月の大きさが、撮った写真ではどうしても小さく見えてしまう」からです。肉眼でとても大きく見える月が、撮影した画像中ではあまりに小さい存在になってしまうのです。つまり、眺める景色の素晴らしさを絶対に写し取ることができないだろう、と確信してしまう時に、カメラを取り出す気になれないように思います。写真で「真を写す」ことができそうにないと確信してしまうのです。

 湧水池に蛍を見に行きました。緑色に強く光りつつ浮かぶ蛍や、水草に止まり、ゆっくりとした点滅を続ける蛍を見に行きました。蛍が浮かび上がる景色・蛍がそこらかしこで光る景色を見に行く時にも、やはりカメラを持って行こうという気持ちは起きませんでした。あの幻想的で不思議な世界を、ぼんやり暗い草木の中や水草の上で、たくさんの小さな緑色の光が浮かぶ景色を、私の腕で真に写し取ることができるわけもないからです。

 特に優れた写真の腕を持つわけでもない私たちが、あの綺麗な景色を写し取り伝えることができる撮影・表示装置があるとしたら、それはきっと「現在のカメラのようなものではない」のだろう、と思います。それは、小さなプラネタリウムのようなものかもしれないし、今の私たちには想像もできないようなシステムかもしれません。いずれにせよ、少なくとも私は、そんな装置や腕をまだ持ち合わせていないのです。

 だから、カメラも何ももたずに、蛍を手ぶらで見に行きました。

 もし、あなたが住む場所の近くに川が流れていたら、少し散歩をしてみると良いかもしれません。もしかしたら、目の前で蛍がふんわりと光りながら浮かび、足下では小刻みに点滅する蛍の光が見えるかもしれません。今週は、そんな景色を見ることができる限られた時期です。あなたの住む家の近くに川が流れていたとしたら、夜、少しだけ散歩をしてみると良いかもしれません。

2008-06-30[n年前へ]

「競馬」と「資本主義」 

 「何か」を表すためにスポーツを「たとえ」に使うことは多い。現在の「資本主義」をスポーツで例えるならば、それは「競馬」だと思う。「経済」に関する知識が(悲しいくらい)乏しい私の頭の中では、「競馬」は「現代の資本主義」とよく似ているように思う。

 競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ。
マーク・トウェーン

 AERA Mook Special 「21世紀を読む」の中で、岩井克人が「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」というようなことを書いていた。これは、マーク・トウェーンが”競馬”について語った「競馬を成り立たせているのは意見の違いだ」という言葉とよく似ている。”違い・差”があって初めて、現在(現実)の資本主義を回すエネルギーは生まれるのだ、という風にこの言葉は響く。「理想とズレ(差)がある現実を、理想に合わせていく調整の仕組み」ではなく、「ありとあらゆる意味の”差”を持ち続ける現実から生まれる利益」で世界が動いている、というように「競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ」という言葉、そして岩井克人の言葉、は響く。

 やりたいことと売れるというのは違うね。売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭悪~い奴もわからなきゃいけないってことだぜ。
(西原理恵子との対談で)みうらじゅん ユリイカ 2006.07

 たとえば、「PCを自由自在に使うことができる人」がいたとする。その人が「技術的な面で心地よく理解しあえる人」を周囲に求めようとしたならば、つまり周囲と自分との間の技術的な”違い・差”="境界"を小さくしたいと願うなら、ほとんど多くの場合”利益”を生むことはできないのではないだろうか。「あなたにできること」は「相手もできたりする」のだから、境界がないのだから、そうそう利益が生まれるわけもない。

 けれど、「PCを自由自在に使うことができる人」が、「PCという言葉もよく知らないし、そんな代物を使うこともできない人」たちの中にいるなら、そこから「利益」を生むことは比較的容易にできるように思う。それを言い換えるなら、「技術的な満足」と「大きな利益」はなかなか両立しえない、ということになる。

 どんな選択を選ぶかどうか、つまり「どんな馬券を買うかどうか」「あるいはそんな馬券なんか買わない」といった賭けが積み重なったものが、現在まで続く世界を生み出し・動かしているのかもしれない。選択肢という名の馬券はたくさんあって、どんな方向にに手を伸ばし、どこかに向かって進んでいく、動かず佇み続ける、違いのある場所に行く、あるいは、理解しあえる場所にいく、そんな数々の選択が積み重なってこの世界を作り出しているのかもしれない、と思う。