2007-09-13[n年前へ]
■「理系」と「化けもの」
「それのどこが未踏なんですか?」という뿉떿쳤ꓤ죣좽꒬ꓞ꒹ꆣ人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。
宇宙は永久に怪異に満ちている。しかも、私は記憶力が悪い。だから、次に書く言葉も多分間違っている。そして、自分の都合の良いように、きっと書き換わっている。だから、きっと間違っていることが、次に続く。
あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。寺田寅彦の葬式で、誰かが「君はとても孤独な人だった」というようなことを言った。
化け物の出入りする世界は科学の世界である。今では、寺田寅彦が書いた随筆をたくさん簡単に読むことができる。青空文庫でも、それ以外の場所でも、たくさん読むことができる。
化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。けれど、寺田寅彦を書いた随筆を辿ることは、この瞬間の青空文庫からは、まだできない。
それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。そんな随筆を辿ると、寺田寅彦が書く科学の書物や芸術の書物の中に寺田寅彦が見ていた景色、人によってはそれを化け物と呼ぶだろう景色が浮かび上がってくる。そんなものを化け物と呼ぶ人もいるだろうし、人によってはそれを人生と呼ぶこともあるだろう。あるいは、人によっては、それが"世界"だと言うかもしれない。
あらゆる科学の書物は同時にまた芸術の世界でもある。「根っからの理系人間を自認する人には使えない言葉」でも「定量的に評価不能じゃないですか」と突っ込まれる表現でも、きっと社会や人生は根っからの理系世界でも定量的に評価可能な世界でもない世界にはそんな見方・現し方ことふさわしい。だから、
ぼくが恰好悪いと感じるだけで作る理由としては充分じゃないですか。だから、他の何の誰かの名前を借りた理由も頼るわけでなく「ぼくが恰好悪いと感じるだけで、作る理由としては充分じゃないですか」という言葉はシンプル、かつ、綺麗に響く。たぶん、これ以上綺麗なものはない。それを、他の何の誰かの名前を借りて表現しようとした途端、綺麗でなくなるように思う。
ぼくが恰好悪いと感じるだけで、作る理由としては充分じゃないですか。他の何の名前も借りず、他の何のルールも借りず、自分自身の言葉で書く「ぼくが恰好悪いと感じる」ということ、その正しさは、本当にシンプルで綺麗に響く。それを、社会が追いかけるかどうかは別にしても、その言葉は、本当にシンプルに綺麗に響く。
人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。そして、その人の中の真実でしかない「人の記憶・人の過去や経験」は自分の都合の良いように変わり、そして新たな未来が形作られて行く。
人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。人の未来は、人が作る。
2007-09-14[n年前へ]
■「モーレツ科学教室」と「MatLab」
「キーワード」を介して繋がっているものは多い。そんなものを眺めながら、「そういうものではなくて、こういうものを作りたいな」と思うイメージが、今もまだ満たされていない。
最近、越前屋俵太の「モーレツ科学教室」のDVDを出張帰りに新幹線の中で観ている。京都にいた頃、時折、日本海に行った。といっても、京都は日本海に面してるのだから、県の中を「ちょっとそこまで」移動した、という程度のことに過ぎない。その途中の辺りに、越前屋俵太が住んでいるという。越前屋俵太の「モーレツ科学教室」は本当に面白い。これを小さな頃に観ていたら、きっと科学が何の根拠もなく好きになっていたに違いない。
MathematicaのプログラムをMatlabに変換する作業とビールのテイスティングを深夜まで。MatLabの拡張コードの勉強をする。数年わからなかったことが、今日この瞬間にわかる。いや、わかったような気になる。きっと、本当はわかってない。
そして、数年前には簡単に理解したことを、きっと、今はもうわからなくなっている。私のMatLabのイメージは、「綺麗な未来の計画でなくて、汚い現実の机の上」という感じだ。「趣味」でなく「仕事」という感じだ。新しさや夢はないけれど、着実に仕事をこなす。そんな、感じだ。
MathematicaやMatlabと、Photoshopを繋ぐインターフェースがあればなぁ。そう思うなら、思った時に作れば良かったんだな、と思う。価値を感じるものに、時間を使ってみれば良かったのにな、と思う。だから、作らなきゃ、と思う。
そして、数年前には簡単に理解したことを、きっと、今はもうわからなくなっている。
2007-12-19[n年前へ]
■GRAPHICATION 「ものづくりと物語」
(無料で定期購読することができる)GRAPHICATION の最新号の特集は「ものづくりと物語」だった。GRAPHICATIONは、一つの特集テーマの下で、色々な人たちの視点から見た記事が描かれている。特集記事だけでなく、連載記事でもその特集テーマに対することが書かれることも多い。GRAPHICATIONは本当に密度が高い。
ものづくりは自然への畏敬の念とともに、人がモノと格闘する物語として語り継がれてきました。それは経済活動であると同時に、人づくりでもあり、文化を育む活動でもあります。ものづくりから生まれる無数の物語に耳を傾けることで人は元気をもらい、先に進む力を得ることができるのではないでしょうか。
ちゃんと仕事もあり、お金ももらっている人たちが、自分の仕事以外のことには目も向けない。
「のりしろ」を出し合う 吉岡 忍
よく建築家にふさわしい資質は何ですかと若い人に聞かれますが、「計画性のないこと、楽天的であること」その二つがなければ、少なくとも独立した建築家にはなれないと言っているんですよ。
「遊び」を思いつく 中村好文
科学とは広い意味での物語である。…客観性や普遍性が売り物である科学には、個人の思惑を一切介入させるべきではないとされてきたのだ。しかし、科学の歴史を通覧してみると、意外にも物語性に富んだ科学が多く試みられてきたことがわかる。
科学と物語の道行き 池内 了
2007-11-25[n年前へ]
■「海面に写る太陽」の不思議
初日の出と足元に広がるミステリー
新年の代表的な景色が「初日の出」だ。海の向こう、水平線の向こうから太陽が姿を現す。空に太陽が昇ると、太陽に照らされ水面が静かに光りだす。そんな景色を見ているとき、ふと「あること」が気になりだし、とても不思議に思えてきた。
海面に太陽が写っているようなのだが、海面に写った太陽はまるで「道」のように水平線から足元まで続いている。よく考えてみると、これは少し不思議に思える。海面に反射した、つまり、海面という鏡に映った太陽の姿がなぜ「上下反転した太陽」でなく「輝く道」のように見えるのだろうか。
昔学校で習った理科の教科書の中には、確かこんな図が描いてあった。そして、太陽の光が水面で反射するときには、「入射角と反射角が同じになるように(海面からの太陽の反射光が)進む」ということだったように思う。そして、その結果、水面には上下さかさまになった太陽の姿が見える、はずだった。
実際、夕暮れ時に風やんだ静かな河口で夕日を眺めた時を思い出せば、それは川面に写る太陽は教科書通りの「上下さかさまの姿」そのままだった。なぜ、目の前の海面にうつる太陽は逆さの点光源ではなく、輝く道のように見えるのだろう?その理由を考えていくうちに、「海面が波立っていること」「太陽に対する(微小)海面の向き」「海面でのフレネル反射率」が原因だということがわかってきた。
まずはじめに確実なことは、海面は平らでも滑らかでもない、ということだ。風や色々なものが原因で、海面は波立っている。海面はその場所ごとに、数限りない色々な方向を向いている。だから、「入射角と反射角が同じになるように(海面からの太陽の反射光が)進む」のだとしても、海面に写り込む太陽は、決して一点だけに見えるわけでなく、さまざまな海面上に写って見えることになる。
実際、表面が粗く波立った海面に太陽光が入射した時の反射光の分布を計算してみると、右の図のようになる(Modified - Blinn - Phong Model)。海面が微視的に色々な方向を向いているので、海面からの太陽光の反射は一方向のみに照射されるのでなく、色々な方向に向く。しかも、右の図は、まだ比較的表面が平らな場合の計算結果なので、実際の海面からの反射光はもっとさまざまな方向に広がる。
そして、重要なことは(微小領域ごとの)海面の向きにより海面からの反射光強度が等方的に分布するのではない、ということである。海面が太陽の方向を向いているときには、その(海面から見た)海面単位面積辺りに入射する太陽光強度が強くなる。そういった効果は、太陽の反射光強度を強める方向に働く。また、海面が私たちの方向に向いている(傾いている)箇所では、(微小海面から見た)水平に近い角度で太陽光が入射・反射することになる。すると、海面でのフレネル反射率が高くなり、これまた、太陽の反射光強度を強める方向に働く(右図は太陽光の入射角に対する海面での反射率を示したもの)。特にフレネル反射率は入射角度が海面に対して、水平に近くなればなるほど非常に高くなり、最後には全反射になる。そのため、「太陽光が私たちの目に反射するような角度になる微小海面」がそれほど多くなかったとしても、反射光は非常に強く見えるのである。
これらの効果が合わさった結果、太陽光の反射光が眩しく映り込むような箇所はどのようになるかを図示して考えてみると、「自分の足元の海面から太陽の方向へ延びる線上」となることがわかる。太陽と私たちを結ぶ線以外の方向は、海面での太陽光の反射率が低くなるので、太陽の姿はほとんど写らず、波立った海面に映り込む太陽の姿が見えるのは、自分の足先の海面から水平線まで光り輝く道状の領域ということになるのである。
私たちが眺めている景色には、「たくさんの不思議」が満ち溢れている。私たちの目の前に転がっている小さなミステリーを解決しようと、その未知のものに一歩足を踏み入れた途端、ただひとつの例外もなく、その奥にはさらに未知の大きな世界が続いている。それは、何だか元旦と新年の関係に似ているように思う。元旦になった今日、新しい未知の一年が始まる。私たちの足元から水平線の先へ、未知の道が続いている。
2008-01-01[n年前へ]
■未知の道が続いている
久々のできるかな?を書きました。『「海面に写る太陽」の不思議 -初日の出と足元に広がるミステリー-』です。
私たちが眺めている景色には、「たくさんの不思議」が満ち溢れている。私たちの目の前に転がっている小さなミステリーを解決しようと、その未知のものに一歩足を踏み入れた途端、ただひとつの例外もなく、その奥にはさらに未知の大きな世界が続いている。それは、何だか元旦と新年の関係に似ているように思う。元旦になった今日、新しい未知の一年が始まる。私たちの足元から水平線の先へ、未知の道が続いている。

















