2006-09-13[n年前へ]
■「お金をたくさん持っている人が幸せですか?」
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『行動経済学 経済は「感情」で動いている』の著者であり、行動経済学を研究されている明治大学情報コミュニケーション学部の友野典男教授にインタビューした記事が公開されました。題して、「お金をたくさん持っている人が幸せですか?」です。
「エンジニアの周りに女性が“少数”しかいない」ことを平林さんは懸念していますが、「少ない選択肢から自分で選ぶと満足感が高い」ことがわかったのでした。つまり、エンジニアは案外幸せをつかみやすいのかも。経済学って役に立ちますね!
2006-09-22[n年前へ]
■Conscious Decision Making
西村和雄 教授にインタビューしたとき、「将来の選択肢は増やすべきだ」「選択肢が多いほど、人は満足し幸せになれる」という話を聞きました。それは、「選択肢が多いということは、人を必ずしも幸せにしないんじゃないか」という友野典男 教授の言葉とは正反対の言葉に聞こえます。この二つの言葉が頭の中をずっとグルグル回っているのです。
相反する選択肢が増えたとしても、選ぶことができる選択肢は一つです。それなのに、選択肢が増えるということは、「選べない選択肢」が増えてしまうということに思えてもしまいます。そんなことを20代前半のアメリカ人と話した時の板書が、今日見た景色です。「"Present"に生きていて、"Past"も"Future"も考えないようにしている」という彼が書いた板書が、今日見た景色です。
2006-10-11[n年前へ]
■そもそも経済学の「目的」って何なんですか?
「そもそも経済学の「目的」って何なんですか?」を書きました。今回は『分数ができない大学生』などの著書を持ち、元日本経済学会会長でもある西村和雄京都大学経済研究所教授に「経済学の目的」「みんなの意見」「ソフトウェアの値段」ということについて聞いてみました。
「事実上“標準ソフト”により阻害されるようなものは、所詮"小さな技術進歩"に過ぎない」というフレーズが、ふと新鮮で面白かった瞬間です。
すべてについて優秀な人がいたとしても、その人のやれる仕事はひとつだけです。1番目の人ができないことを2番目の人が…と巡っていけば、1番“できない”人だってやることがあるわけです。広く勉強をしていればね。
「ひとつ」を選ぶことが選択というものであるなら、選択肢が増えるということは、「選べない選択肢」が増えていくということでもあるんだな、とふと感じました。
2007-07-06[n年前へ]
■物語と市場経済
現代は大衆民主主義と資本主義と科学技術の時代である。人々は原則平等という権利と引き替えに、細かい差異化過程に巻き込まれ序列化されることを余儀なくされる。 「科学とオカルト」P.7 はじめに「科学とオカルト
本屋に置いてある雑誌や駅に置いてあるフリーペーパーを眺めてみれば、たくさんのファッション・スタイルや数限りないグルメスポットが掲載されている。そんなたくさんの選択肢から自分なりのものを選んで自分に振りかけてみても、他人と自分の違いは、スターバックスで注文するコーヒーかホットドッグのトッピング程度の違いしかないことだって多い。
宗教という大きな公共性も身分制という規範も存在しない現代では、自分が何者なのかということを教えてくれるものは何もない。唯一、最大の公共性であり科学は、そういう問いには原理的に答えることができない。「科学とオカルト」P.148 現代オカルトは科学の鏡である元サッカー日本代表の中田英寿は「自分探しの旅」へと出かけてしまい、須藤元気は格闘技のリングから「スピリチュアルな世界」へと舞台を変えた。「僕って何」という問いかけをする「一見さんに対し」、ほとんど全てのものが明確な答えを与えることはしないように、科学が一見さんが抱えるその問いに答えることはない。
お客様は神様です。 三波春夫「お客様は神様です」という言葉とともに、スーパーにはたくさんのものが並び、私たちは自分が持っているお金の範囲で自由に商品を選ぶことができる。現代社会は、お金を持っている限り有効の神様チケットを持った人で満ちあふれている。それと同時に、そんな神様たちは「選択」という価格の付けられたチケットを持ってはいるけれども、選択に迷いがちで自分を見つけられない存在でもある。
幸か不幸か、社会はこの現実社会にはないものを物語という形で流布する。「かけがえのない私」というのも、こういった物語の一つである。「科学とオカルト」P.149 現代オカルトは科学の鏡である消費者が望むものを誰かが生産する。需要のあるところには、必ず供給が生まれる。科学が生産できないものを現代の消費者が望むなら、そこには、必ず別の供給者が現れる。それが自由市場主義で動く現代社会なのだろう。消費者という神様は欲しいものに応じ、時には科学を選び、時にオカルトを選ぶのである。お客様という神様たちと、そんな神様たちの欲望に応える供給者が作り出していくのが、21世紀の世界なのだろうか。
(「科学とオカルト」を書いた)池田の著書は、自分で考えるとはどういうことか、結局はそれを教えてくれる本なのである。 養老孟司
2007-09-12[n年前へ]
■「理系」と「希望」
『理系ってどういう人かなぁ?』って聞いたらずっと海を眺めている人の荷物に目がいく。ビニール袋と紙袋をまとめ、その荷物の近くで海を眺めてる。紙袋の一番上にはくまのぬいぐるみが入ってる。
最終回の仮題は「希望」です。これまで「満足・価値・魅力・選択肢・感情・技術革新」といったことを聞いてきたつもりですが、その最後は、やはり「希望」です。希望という文字を見ると、いつも「希ガス…」という変な文末が目に浮かぶ。もう少し言い換えれば、いつも「希ガス…」という変な文末を連想するような「気がする」…。
ただ、どんな道にせよ、共通するのは、途中で必ず迷うということだ。迷うの語源を検索すると、迷う=真酔うだと書いてある。そして、「迷える者は、道を訊かない」という言葉を読む。
科学者たちは魂の力も電気や磁力とおんなじようなものであるという、まことしとやかなおとぎばなしをつくります。どんな道でも人は途中で必ず迷い、そして、迷える者は道を訊かないのだとしたら、道を聞こうとする人は道に迷っていない人で、地を聞かない人は迷っている人だということなのだろうか。それとも、単にその瞬間に迷っていない人だということなのだろうか。
大切なのは、わからないということへのタフネスを身につけることに精力を注ぐことだと私は思う。そんな論理を考えようとしても、わからないことばかりだ。迷える者は道を訊かないという論理と同じフレイズを繰り返すなら、わからない時には人は訊くことをしないのだろうか。
海辺には色んな人たちが住んでいる。松林の中に場所を作っている人もいるし、廃車を家にしている人もいる。この小さな町は、それでも人に優しい。雨をしのぐことができる「私有地でない場所」から人を排除することはない。人が日々を過ごす場所から、その人を移動させることもない。
どちらに進んで行けば良いのか、わからない時がきっとあるだろう。年が明けようとする頃、週末、一日二度見ていた人が亡くなった。何年も見つ続けた景色、何年もとり続けた景色、何年も「今日見た景色」として針続けた景色の中で人が亡くなった。
十五で世の中をわかっちまったようなヤツラから見れば 馬鹿げた話さ
それが、最良のキャリア教育であると、私は信じている。






