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2010-10-31[n年前へ]

「おバカなベクトル」と「ともだち」 

 先日、思いもしないところで、小学生の頃のともだちに再会することができた。電気屋に行くと、ようやく「マイコン」というものに出会うことができるようになった、そんな時代の遊びともだちだ。
 イケテナイわたしたちは、いつも、小学校の正門を過ぎてから、どれだけ地面に触らずにどれだけ遠くまで行くことができるか、とか、…何だかクダラナイことに時間を費やしていたような気がする。

 …「ある種のナイーブさ」と言い換えるならば、それは必要なものだと思う(Larry Wallの言うhubrisともはちょっと違うとは思うけど)。 2番目のエントリで挙げられてる「バカさ」「若気の至り」がたぶんそれで、「ものわかりの良さ」の反対側を向いたベクトル。


ナイーブさ
 ちょうどその頃、四半世紀振りの「中学三年生の同窓会」という案内が来たり、週刊女性のページに中学から高校・大学にかけてよく遊んでいたバンド仲間が出ていて、何だか時間の流れというものについて考えさせられたのだった。
 以前書いた「その場その場で面白そうな方向にふらふら進んだ方が良いタイプ」の人の場合は、一本道を極めるよりも、「いい歳をして」とか言われながらも次々と新しいことに手を出す方が、楽しい人生になるかもしれない (たとえ偉大な成果を残せなくとも)。それがはからずも、この種のナイーブさを失わない秘訣であるように思う。


ナイーブさ
 ギターを弾いていた人は、今では石井スポーツの登山用品専門店店長となって活躍しているようだ。夜行列車に乗って、男二人がペアルックで!!スキーに行っていた頃が幻のようだ。
 そして、テレビ局のスタジオで再会した小学校の頃によく遊んでいたともだちは、なにやら技術系の専門家になっているようだ。どちらも、何だかとても誇らしく人に話したくなる話だ。

 不思議なのは、この「誇らしく人に話したくなる」という部分だ。何だか奇妙なことに、その人たちの活躍を心から素直に宣伝したくなるような気持ち、自慢したくなるような気持ちがそこにはある。そんな人たちが周り数百メートルにいたことを自慢したくなる気持ちもたぶんあるのだろうと思うけれど、不思議なことに、「他」慢したくなる気持ちもあるような気がする。それが不思議でたまらない。もしかしたら、年をとりボケたせいで、自分のことと他人(ひと)の違いがわからなくなってしまっているのだろうか。

まっさらさらのアスファルト 描いた座標軸は、
ゆらゆら揺れる 胸のベクトル。

Pumps Race Song@「ベクトルの彼方で待ってて」
 あの頃、どんなベクトルを地面に落書きしていたのだろうか。…たぶん、それは「ゆらゆら揺れる 胸のベクトル」ではない、はずだ。



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