2010-03-15[n年前へ]
■「政治は一瞬、方程式は永遠」
「痛みは一瞬。映画は永遠」で、体を張ったスタントばかりだった"バック・トゥ・ザ・フューチャー"を作る時に、主演マイケル.J.フォックスが監督ロバート・ゼメキスと繰り返し交わした言葉を書きました。
痛みは一瞬。映画は永遠。
"バック・トゥ・ザ・フューチャー"では、主人公は、1985年の世界から1955年にタイムスリップします。今日、引用する言葉は、そのさらに3年前の1952年、まさに時空間を表現する相対性理論で有名な、アルバート・アインシュタインの言葉です。
1948年にイスラエルが建国されたあと、1952年にはイスラエル初代首相ベン・グリオンから大統領になってほしいと要請されましたが、「政治は一瞬、方程式は永遠」と言って断りました。
米沢富美子「人物で語る物理入門〈下〉 (岩波新書)」
この2つのフレーズは、似ているようで、文の流れは結構違います。前者は、永遠のために一瞬を受け入れ、後者は、一瞬には目を向けず永遠を眺めます。
色々な一瞬と永遠があることでしょう。あなたなら、この形の一文に、どんな言葉を入れたいと思いますか?
2010-03-14[n年前へ]
■愛とは、見つめ合うことでなく、同じ方向を見ることである。
角田光代の「今、何してる?
」から。
(フランスの作家、「星の王子さま」の作者、サン・テクジュペリの言葉から)「愛する、それはお互いを見つめあうことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである。
ふと、「お笑いパソコン日誌」に書かれていた、こんな言葉を思い出す。
仮に、同じ流星を遠く離れた恋人同士が見ることができたとしても、悲しいことに、たいていは違うところを見ているのである。同じ方向を見ることはできないのかもしれない。だったら、せめて同じ方向へ、前へ、進むことならできるのだろうか。それとも、その「前方」は、やはり二人違う方向を向いているのだろうか。違う方向を向いているとしたら、それはただ離れていく方向なのだろうか、それとも、現実世界でよくあるように、やがてまたどこかで交(まじ)わったりするものだろうか。
それは、同じ場所で同じ映画を見ても、必ず違う部分を見ているのと似ている。われわれは他人とまったく同じものを見ることができない。残念だが
ここでは引用していないが、サン・テクジュペリの言葉を導入部分に使いつつ書かれた、角田光代の文章はやはり魅力的だ。変なたとえだが、それは久世光彦が書く、向田邦子の魅力に、少し、似ているような気がする。
2010-03-13[n年前へ]
■恋のさなかにいる女子の記憶力は頑固で、強靭で、図太く、変更・訂正をいっさい受け付けない。 
「ふつう」に考えているうちに、色んな「ふつう」がみえてくる、軽やかで楽しいそんな本。角田光代の「今、何してる?
」から。
たしかに、恋のさなかにいる女子の記憶力はずば抜けている。かつ、その記憶力は頑固で、強靭で、図太く、変更・訂正をいっさい受け付けない。ふと、プログラミング言語の上で例えるなら、そんな「記憶」はどういう風に表現できるのか・実装されているのか、ということを考えたくなる。
記憶力の悪い(ように見える)女は、あなたに恋愛的な興味を持っていないだけなんだよ。そして、また角田光代の書く文章に惹きこまれていく。
2010-03-12[n年前へ]
■何が間違いで、何が正しいのでしょう。
種ともこ「カナリヤ」から。
あなたはスコップ持って、
夢を掘り出すため、はしごをおりてゆく。
闇が心に満ちる時は
きっと出口は近い。知っているの。
何が間違いで、何が正しいのでしょう。
私にはわからない。ただ、耳をすませる。
時代の空気が毒を産みだす時、
歌を歌って、あなたにすぐ告げる。
まだ回復、とは言えないけど。底は打った。と思う。時の流れの速さに驚くけれど、もう二十年以上前になる頃に、「考えごとしてた。少しだけしてたんだ」「考えてたことは 少し悲しいこと」で始まる種ともこの「うれしいひとこと」が、とても好きだった。「うれしいひとこと。きみに伝える、回路が、心にある限り、歌うよ」という最後のひとことまでが好きだった。その時、採譜して書いた「うれしいひとこと」のギター譜は、多分今でもノート棚のどこかに残っていると思う。
レコーディングももうちょっとしたら再開できると思う。
tomoko tane blog
制作するためのエネルギーを残すために、しばらくブログ、ツイッター、マイスペ、お休みさせてください。
tomoko tane blog
その頃通っていたバイト先、長岡京市の駅前にあるレコード屋には、「長岡京のロックスター」というチラシが貼ってあった。そして、バイト仲間の駐車場の前には種ともこの実家があって、時折、「お母さんらしき人」が、家の前の道を箒(ほうき)で掃いていたりした。
考えごとしてた。少しだけしてたんだ。何度、「大丈夫ですか?」「ありがとう。平気です」という歌声を繰り返し聴いたことだろう。最後のひとこと、「うれしいひとこと。きみに伝える、回路が、心にある限り、歌うよ」まで、本当に好きだった。
雨の歩道で、いきなりつまづいた。
2010-03-11[n年前へ]
■世界のホンダの足長おじさん
小山慶太の「科学歳時記
」から。
昭和39年、本田宗一郎と藤沢武夫の両氏(本田技研=ホンダの創立者)は、名前を公表しないことを条件に私財を投じ、若手研究者への奨学金を助成する財団法人「作行会」を設立した。以来、20年、1735人の科学者を育てた同会は、昭和59年、十分に目的を果たして解散をした。実は筆者もかつてこの奨学金の恩恵に浴した一人であるが、その時は足長おじさんが誰なのかを知らなかった。
解散に際し、(中略)初めて二人の足長おじさんの名前を明らかにした。
2010-03-10[n年前へ]
2010-03-09[n年前へ]
■「正しいこと」と「面白いこと」は両立しない。
斎藤美奈子の「文章読本さん江
」から。
「正しいこと」と「面白いこと」は両立しない。読む側になって考えてみれば、すぐにわかる。無難で上手なだけの文章なんか、これ以上、読みたい?私たちが求めているのは、常識をくつがえすような、新鮮な文章でしょう?
「正しいこと」と「面白いこと」は両立しない、と書いてしまうと語弊があるかもしれない。「科学的に正しいこと」「興味深いこと・面白いこと」が両立する場合は、それほど稀(まれ)というわけでなく、あるからだ。たとえば、寺田寅彦の随筆などがそうだ。(科学的に)正しく、そして面白い。もちろん、寺田寅彦のような稀有な例を出してしまうと説得力が失せるかもしれないが、科学的ということに限れば「正しいこと」と「興味深いこと」はそう珍しくない、と言っても良いのではないだろうか。
ここで、斎藤美奈子が書く「正しいこと」というのは、そういう分野における「正しさ」ではない。それは、たとえば、ニュースを見てレポーターやキャスターが語る「正しいこと」や、それについて、さらに人が語る「正しい」こと、というようなものかもしれない。
少なくとも、私が読みたい文章は常識に沿った道徳本ではないことは確かである。
2010-03-08[n年前へ]
■”大きな”ところのバランスシート
色川武大の「うらおもて人生録 (新潮文庫)
」から。
でも、全勝なんて、幻だからね。
俺はね。世の中とうまく折り合いをつけて、スムーズに栄えていく人を見ると、「あ、そんなに小さな勝ち星にばかりこだわっていいのかな、大きなところのバランスシートにも神経を使わないと、ご破算になるぜ」なんて思うんだね。
負け慣れている奴の発想なんだろうけどね。
2010-03-07[n年前へ]
■不況下に必要とされる「目の前の小さな幸せを大切にする能力」
酒井順子の「女も、不況?
」あとがきから。
不況が続いていけば、目の前の小さな幸せを大切にする能力は、ますます求められるものと思われます。二十年後に今の時代を振り返った時、「あの時代って、考えてみると意外に楽しかった」と思うことができるように、したいものですねぇ…。
2010-03-06[n年前へ]
■ミカンの隣にリンゴを置くと果物だが、ボールを置けば…
非ユークリッド写真連盟(森田信吾+糸崎公郎)「フォトモ―路上写真の新展開
」を読んでいるとセザンヌのこんな言葉に出会う。
ミカンの隣にリンゴを置くと果物になる。しかし、ボールを置くとそれは球体になる。人は、類似性を見つけたがり、そして、分類をしたがる指向を持っているのかもしれない。
人が二人並んで歩いている時、あるいは、人と何かが並んでいる時、私たちはその中にある類似性を見つけ出す本能を持っているのだろうか。

