hirax.net::Logos

2008-08-03[n年前へ]

評論は何もできない実装しない人にまかせとけ

 それが、ハードウェアでも、ソフトウェアでも、対して違いはない。「可能な条件下で作る」ただそれだけだ。実装する立場になってみれば、評論家・解説者みたいな曖昧で一般的な言葉は絶対に出てこない。たくさんの「条件」が決められてしまえば、嫌でもその条件に応じた最適解が決まってしまうものだ。そんなものだ。
 評論なんか何もできない実装しない人にまかせとけ。実装して、その動いた結果が全てだ。上手く動けばオッケーだし、上手く動かなきゃ、上手く動くまでやるだけだ。

  Iram Amayoa.

2008-07-21[n年前へ]

He who can does. He who cannot teaches.

He who can does.
He who cannot teaches.
(できる人はやる。できない人は教える)

ジョージ・バーナード・ショウ

2008-07-19[n年前へ]

「肯定を書く長文」と「セクスィー部長」

 だって、みんな否定にうんざりして、じつは、肯定をずっと求めているんですから。

鴻上尚史
 いいんだよ。

セクスィー部長

2008-05-30[n年前へ]

RADWIMPS オーダーメイド

きっと僕は尋ねられたんだろう。生まれる前、どこかの誰かに。
「未来と過去、どちらか一つを見れるようにしてあげるからさ。どっちがいい?」

「そういえば、最後にもう一つだけ。”涙”もオプションで付けようか?無くても全然支障はないけれど。面倒だからってつけない人もいるよ。どうする?」

2008-05-29[n年前へ]

「余の辞書に不可能という語はない」

 「余の辞書に不可能という語はない」っていうのは「余に不可能事はない」というのとは違うので、不可能なときは、ほかの人の辞書を借りてくればいいリクツだ。この辞書を経由したあたりに、けっこうアジがあるかもしれない。
 南伸坊「ごはんつぶがついてます」 P.107

2008-05-24[n年前へ]

「大村益次郎」の頭

 私が大村益次郎の肖像画を描いたキオソーネであれば、「コノアタマ、スコシ、ヘンデス!」と、何度も確かめただろう。しかし、益次郎の弟子は、「シ、然り。されど師匠はまさにこのようでありまして……」
 南伸坊は天才である。南伸坊が雑誌「旅」に連載したものが本になったのが、「歴史上の本人」だ。10年前の本である。その人のなりをして、その人が過ごした場所に行き、その人になって感じていく。
 神技とおそれられた大村益次郎の軍略とは、つまり「情報」であり「技術」であり、「近代」であり「合理主義」であった。……つまり、大村益次郎は、その頭によって必要とされ、その頭によって殺された。
 「この頭部は……」と私は頭部をまた脱ぎながら思った。見掛けの滑稽さに似つかわしくなく深刻である。
 大村益次郎には、平時に、学者や研究者として生かしてあげたがった。知ることの楽しさ、一途にそこにつき進んで、家庭に帰れば冗談を言って笑い転げるような、そんな生活をさせてあげたかった。そうしていたら、明治維新がならなかったとしてもだ。
  南伸坊 「歴史上の本人」

大村益次郎






2008-05-17[n年前へ]

「リアリズムというのはすべてを描くことではない」

 リアリズムというのはすべてを描くことではない。描かないものまでもそこに潜り込ませるということである。
  赤瀬川原平 モネ「日傘をさす女」

2008-05-14[n年前へ]

「せこはせこなりの用途がある」

 寄席は下手な人が大ぜいいていんだな。デパートなんかで、ブランド商品ばかり並べてあるコーナーがあるでしょう。寄席はああなっちゃ、だめなんですよね。せこの部分がたくさんある中に入って、初めて光ってくるものがある。せこはせこなりの用途があるんですね。
 色川武大「寄席放浪記」 p.51

古典のリレー

 古典というものは(落語に限らず)前代の口跡をただ継承しているだけでは、古典の伝承にはならない。前代のこぴーでは必ずいつか死滅するか、無形文化財のようなものと化して烈しい命脈を失ってしまう。リレーというものはそうではないので、その時代に応じて新しい演者が、それぞれの個性、それぞれの感性で活かし直していく。それではじめて古典が伝承されていくのである。
 色川武大「寄席放浪記」 p.51

奥行::「このヒトにはまだまだオクがあるのに」

 いつも、ああ、惜しいな、このヒトにはまだまだオクがあるのに、と思う。
 色川武大「寄席放浪記」 p.132