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2004-08-20[n年前へ]

夏至の日に超合金ロボになる

夏至の日に手術が無事終わって両足と左手に金属が入った。子供の頃好きだった超合金に自分がなっちまった。
 唯一折れていない右手で書いた窪塚洋介の直筆メッセージ. from LINK 日々は踊る!

2005-05-05[n年前へ]

「何でもやればできる、という言葉」

 ところで、 「未来予想図」は多数決で想像したり決めたりするものではなく、「未来は実際に作りだしてしまえば良いもの」ということを考えるとき、例えば「技術者と作業員」の

技術者とは、大勢の人たちが無理だと思っていたり、どれだけ試行錯誤してもうまくいかないような(例えばコンピュータに関連する)技術的な難題を、人並み外れた凄まじい問題解決能力で解決し、たちどころに目的を達成してしまう能力を持つ特殊な人たちのこと。多くの場合、置換不可能である。誰でも勉強すればなれる訳ではない。
登 大遊@筑波大学情報学類の SoftEther VPN 日記 - コンピュータ・エンジニアのような言葉を連想してしまう。「人並み外れた凄まじい問題解決能力でたちどころに目的を達成してしまう」ような人であれば、「未来を実際に作りだしてしまう」こともすぐにできそうだ。しかし、そんなことはなかなかできることでもなさそうだけれど…とも思ったりする。

 以前、ペトロ三木が「ジェネジャン!」の何かの回で、他のタレント出演者たちに向かって
(芸能界で成功するのは才能のある一部の人間だけだろ)(才能あるヤツが)「何でもやればできる」みたいな発言をするから、ありもしない才能を信じる奴らが増えるんだよ。おまえらは社会に対して無責任なんだよ。
So-net blog:ペトロ三木のブログ:ペトロ三木から重大発表!!日テレの「世代密林」はしゃべり場のパクリ!!いうようなことを言っていたが、その言葉が頭の中にプカプカ浮かんでくる。「ぼくは別に何かの才能があるわけじゃない。誰でもみんなやろうと思えばできると思う」と語る堂本光一に、ペトロ三木が「アンタのルックスは(みんながみんな持っているもののはない)立派な才能だろ」とツッコんでいたのを思い出す。(社会に対して無責任とは思わないが)誰でも「何でもやればできる」わけではないよなぁ、と思ったりもする。そしてまた、「(何かを) - やろう - と努力をちゃんとできること」も「才能の一つ」なのかも、と思ったりもする。あついは、「誰でもみんなやろうと思えばできる」と信じる力こそが、欠かせない才能の一つなのかもしれない、とも思う。もしかしたら、それは「夢」を見たり、「夢」を見させたりする能力なのかもしれない。

 登 大遊氏は尋常でない才能の持ち主だし、伊藤直也氏だってそれは同じだ。彼らの言葉を「なるほど」と熟読しながら、ふと我に返ると「12人の怒れる男」の正義を追求するヘンリー・フォンダではなく、人の意見に激しく左右されてしまう「12人の優しい日本人」になる自分がいる。彼らの言葉を眺めていると「…_|‾|○」という気持ちにもなったりするけれど、そんなorzな気分は「アラン・ケイの直筆サイン(The best way to predict the future is to invent it !)入り高座扇」ででも吹き飛ばすことにしてみようか。

2007-12-01[n年前へ]

直筆で読む「坊っちゃん」

 直筆で読む「坊っちゃん」(集英社新書ヴィジュアル版)を読んだ。読んだと言っても、読んだと言えるのは、秋山豊氏による解説文と夏目房之介による書字の特徴を解説した文章だけで、夏目漱石の直筆文章の方は「書き直したり・消したり箇所」を眺めただけだ。

 夏目漱石が書こうと意図した言葉と印刷された文字の違いを解説する秋山豊氏による文章は面白かった。たとえば、 坊っちゃんの「山嵐はそうさアハハハと笑ったが、あとから真面目(まじめ)になって、君あまり学校の不平を云うと」の真面目(まじめ)が真顔(まがお)だろうということに頷いたり、「それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方(ひぐれがた)になったから」の「かなり(可成)」が実は「なるべく(可成)」なのだな、と納得したりした。

[書き直し前]だから清の墓は小石川の養源寺にある。
[書き直し後]だから清の墓は小日向の養源寺にある。

 直筆の文章は、私は、スムースには読めない。けれど、どんな言葉に朱を入れたかということを眺めると、その一つ一つがとても面白い。Typoを修正していたり、地名を変えていたり、語勢を整えていたり、そんな漱石の息づかいを感じることができるのは、素晴らしく新鮮だ。