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1998-11-29[n年前へ]

鴨川カップルの謎 

そうだ、京都、行こう


 京都の風物詩の一つに「鴨川カップル」がある。京都を流れる鴨川の川縁に、カップルが等間隔に並ぶ現象である。鴨川の三条大橋から四条大橋までがその舞台である。この鴨川カップルについては、いくつかの性質が知られている。

  1. 基本的にはカップルらは等間隔に座る。
  2. 暗くなるに従い、カップル間の間隔が狭まる。
  3. 電灯の近く、すなわち、比較的明るいところではカップル間の間隔は広がる。
  4. 夏はカップルの間隔が狭まり、冬はカップルの間隔が広がる。
  5. 夏はカップル数が多く、冬は少ない。
  6. 男性が連れ立って、しかも何人かで座っていると、その周りにはカップルはなかなか座らない。
 以下に、具体例を写真により示したい。なお、これは1998年の11/21日の17時前後に撮影されたものである。冬における測定のため、カップルの間隔は非常に広がっている。目測によれば15m程である。これが夏の夜であれば5m程にはなる。
鴨川カップルの例
いい雰囲気の2人

(四条大橋の上から撮影)
移動中の鴨川カップル
これは男同士。2人で語り合っている高校生男子。

(この後、1999.05.04午前中に撮影した画像も示す。午前でもあるにも関わらず、上の時より密度が高い。もちろん、夜の密度の高さはこんなものではない)

1999.05.04午前中に撮影した画像

 今回の目的は、「鴨川カップル」のこのような性質はなぜ生じ、そこに効いているパラメータを実測することである。

 まず、性質2,3(暗くなるに従い、カップル間の間隔が狭まる、電灯の近く、すなわち、比較的明るいところではカップル間の間隔は広がる)より、明るいと隣のカップルと離れようとする力が大きくなると予想される。また、カップル同士が離れようとする力、斥力、のバランスにより性質1(基本的にカップルらは等間隔に座る)が形成されていると考えられる。

 性質3(夏はカップルの間隔が狭まり、冬はカップルの間隔が広がる。)の季節による間隔の違いは性質4のカップル数の違いから来ているのかもしれないし、それ以外の何らかのパラメータがあるのかもしれない。性質4(夏はカップル数が多く、冬は少ない)はやはり「寒さ」のせいであろう。京都は本当に寒い。いくらアツアツのカップルとは言えども、寒いものは寒い(多分、想像だが)。当然、建物の中でのデートとなるだろう。自ずと、鴨川カップルは少なくなる。

 性質5(男性が連れ立って、しかも何人かで座っていると、その周りにはカップルはなかなか座らない)については、「男性の群れ」というのは普通のカップルに比べて非常に強い斥力が働いていると考えられる。この性質5に関しては、私の実体験を持って語ることができる。私と友人連中が鴨川の川岸に近づくと、座っている鴨川カップルが離れていく、という経験を何度もしたことがある。やはり、強い斥力が働くのだ。

 計算は全てMathematica3.0を使った。計算の例をMathematicaのNotebookで示す。また、計算の考え方を以下に示す。

計算方法
 鴨川の川縁を真上から見た所。画面上部が鴨川。画面下部が歩道。画面中央に街灯がある。そのため、画面中央が一番明るい。
 カップル達はこの辺りに座る。
対称性を考えて、画面の左半分のみを考える。また、赤い線上にカップルが座るものとする。
 その線上の明るさを模したもの。X=100の所が街灯の直下とする。

 このような明かりに照らされた状態で、カップルが照らされているとする。
また、他のカップルが他のカップルに見える明るさは距離に反比例するものとする。普通ならば、距離の2乗で反比例にしたいが、計算の簡単のため、こうした。
 こうしておいて、隣のカップルの存在感(=カップルの明るさ/距離)が左右で同じという条件をつけてやる。

 100m内にカップルが5組として方程式を解くとこうなる。棒グラフの先端の位置がカップルの座っている位置を示している。1組目は0m地点、5組目は100m地点、すなわち、街灯の直下である。
 明るい所ではカップルの間隔が離れているのが判ると思う。
 カップルの居心地(隣のカップルの存在感=隣のカップルの明るさ/距離)はいずれも、8という値である。カップルの居心地指数は少ないほど快適であることを示す。

 それでは、条件を振ってやってみたい。上からだんだん暗くなっていく。鴨川の半日である。また、カップル数はいずれも100m辺り5カップルである。

左から、真上から見た鴨川の川縁、左半分の明るさ分布、左半分のカップルの位置、カップルの居心地
20
16
10
8
6.4

 昼間はカップルが等間隔であり、夕方になり、街灯で照度分布ができると、カップルの間隔も分布ができている。といっても、そういう条件で解いているのだから、当たり前だが。
 また、カップルの居心地は暗くなった夜の方が快適であるのがわかると思う。それは、カップルの様子を見ていても、その通りであると思う。しかし、快適であるからといって、カップルが何をやってもいいという意味ではない。そこは、はっきりしておきたい。

 今回は、カップル数を全て同じにしたが、逆に同じ居心地指数であるという条件下で解けば、夜の方がカップルが多いという性質も再現できる。これらの計算モデルと実験を比較していくことにより、鴨川カップルの性質を実証していくことができるだろう。なお、今回は計算の簡単のため、男性連れの効果は組み入れていない。また、いつかもう少しまともな計算をしてみたい。

 計算を行った感想だが、実に不毛な計算であった。気が向けば、モンテカルロシミュレーションによる鴨川カップルの検証も行いたい、と思う。が、気が向く日はきっと来ない。

2000-11-07[n年前へ]

SEXYタレント売り出し術 

または恋のフライバイ

 
 

 朝のテレビと言えばテレビ朝日の「やじうまワイド」である。私はニヒルな吉澤アナウンサーが大好きなので、毎朝TVのチャンネルを「やじうまワイド」に合わせておくのが日課なのである。

 吉澤アナの素晴らしさを少し語らせてもらえば、コメンテーターが変なコメントを言った場合、吉澤アナは即座に「本当にそうですかねぇ?」といとも簡単に否定する。しかも、深夜番組ではなく、早朝のさわやかな時間帯にである。コメンテーターの威厳などあったものでない。しかし、コメンテーターの威厳というモノがそんな言葉で否定されるようなならば、そんなものは実は「張りぼて」のような威厳であるわけで、その張りぼてを日の下にさらしてしまうそのイケズな感じが私は実に大好きなのだ(そしてそんな斜に構えた吉澤アナがホントーにたまに真剣な目になる感じが私は同時に大好きだ)。

 とりあえず、そんな感じで毎朝「やじうまワイド」を流していると、梨本勝とか福岡翼などの芸能レポーター達が芸能スキャンダルをしゃべりまくり、いやでもそれらが耳に入ってくるのである。朝のTVはと言えば、何はなくともまずは芸能スキャンダルなのだ。といっても、私の耳は興味のないことにはかなりの難聴気味になるらしく、それらの芸能スキャンダルは耳には入ってくるのだが残念ながら頭には入ってこない。

 そんな私でも、芸能オンチの私でもスキャンダルを利用した「SEXYタレントの売名行為」が多いことには驚いてしまう。古くは(そんなに古くない?)「古屋一行のAVギャルスキャンダル」から、「羽賀研二と桜庭あつこ」「岡村隆史と美人巨乳釘師」まで、そんな話は腐るほどある。

 確かにそんな話は腐るほどあるのだが、SEXYタレント売り出し術を科学的に考察したという話は今だ聞いたことがない。私が不勉強なせいかもしれないが、少なくとも私は聞いたことがない。

 一体、それはナゼだろうか?ミョーに科学的な芸能プロダクションあたりが、そんな研究をしないものなのだろうか?もうすぐ21世紀になるというのに、そんな科学的な芸能プロダクションは存在しないものなのだろうか?

 いやもちろん、そんな芸能プロダクションはないだろうし、そんなクダラナイことも誰もあえてするわけもないだろう。しかし、クダラナくて誰もそんなことをしないというのであれば、それはもう本サイトの大好きなジャンルである。というわけで、今回は「SEXYタレントの売り出し術」を考察してみることにした。
 
 

 まず、芸能に疎い私が考えてみるに、なぜかだか知らないが「SEXYタレントの売り出し術」は「愛」を装うのが普通である。「古屋一行のAVギャル」でも、「羽賀研二と桜庭あつこ」でも、「岡村隆史と美人巨乳釘師」でもいずれも「始まりはいつも愛」なのである。こう書くと「ちょっといい話」に聞こえるが、実は全然「いい話」ではないのが不思議と言えば不思議であるが、とりあえず「SEXYタレントの売り出し術」は「愛」の一応用例として考えることができるかもしれないわけだ。
 

 本WEBサイト「できるかな?」でも「愛」ならぬ「恋」の力学は常日頃から考えているわけで、「恋の力学」が解けるなら、「愛の力学」も解けるかもしれないし、だとしたら、「SEXYタレントの売り出し術」も解けると言っても必ずしもウソとは言えないだろう(典型的な詭弁)。そこで、今回はこれまで考えてきた「恋の力学」を応用することで、「SEXYタレントの売り出し術」を考えてみることにした。
 

 とりあえず、登場人物として次のような三人を考えてみよう。

  • 登場人物 男性タレントA : 名実共にA級のタレント。
  • 登場人物 男性タレントB : B級タレント。沖縄に店を経営していたりする。女性に「誠意」を見せるのが得意中の得意。
  • 登場人物 女性タレントC : C級タレント。少なくとも私には「誰だそれ」状態の無名人。だけど、大抵の場合SEXY度だけはバツグン。
この中の女性タレントCが、他のタレント - 男性タレントA,B - にモーションをかけて、「SEXYタレントの売り出し術」を実行する場合を考えてみる。まずは、女性タレントCが、名実共にA級である男性タレントAに接近する場合である。

 つまり、

  1. 女性タレントCがはるか遠くから男性タレントAに近づいていく
  2. 女性タレントCと男性タレントAが最接近する
  3. 女性タレントCが男性タレントAから離れ、ずっと離れた方に行ってしまう
という過程を考えてみよう。このような過程は
  • 女性タレントC
  • 男性タレントA
だけが登場して、その二人の間の運動を考えるわけであるから、の場合と同じく「二体問題」として解くことができるだろう。

 しかも、男性タレントAの存在感と女性タレントCの存在感はあまりに差がある。そのため、女性タレントCが近づいてきても男性タレントAはビクともしない。もちろん、もともと男性タレントA自身は芸能界の中をどっしりと動いているわけであるが、女性タレントCが近づいてきても我関せずである。それに対して、女性タレントCは男性タレントAに近づくことで影響を受ける。

 このような場合は単純なケプラー運動の一例であり、細かい導出はメンドくさい(私が)のでしないが、女性タレントCは男性タレントAの近くでは、彼を基準とした座標系で双曲線軌道を描く。普通であれば「双曲線軌道」という言葉には何の色っぽさもないが、コトが「SEXYタレントの売り出し術」であるだけに、双曲線軌道という言葉でさえ何か色っぽさを感じてしまうのは私だけだろうか?

 そんなことはおいておいて、女性タレントCは男性タレントAに近づいて、そして離れていくのである。その時、彼女は彼を基準とした座標系で双曲線軌道を描くわけだ。
 

ある女性タレントCの双曲線軌道

 この場合、女性タレントCの「イキオイ」(ここでは速度とでもしておこう)は男性タレントAを基準とした座標系では「一番最初に近づいてくる時」と「一最後に離れて行く時」では変わらない。もちろん、方向は違うのだが、大きさは同じである。それを描いてみたのが次の図である。女性タレントCのイキオイは最初と最後では、方向が違うだけで大きさは同じコトがわかるだろう。
 

この場合、女性タレントCの「イキオイ」は変わらない。

 この場合、「SEXYタレントの売り出し術」としては単に女性タレントCの方向転換を図っただけ、である。図に書くとこんな感じだ。
 

「美人釘師」から「AVギャル」への方向転換。

 ちょっと具体的すぎたような気もするが、この例はフィクションにすぎない。別に男性タレントAがナイナイ岡村だと言っているわけではない、と一言だけフォロ〜しておくことにしよう。
 

 さて、この場合の「SEXYタレントの売り出し術」はかなり低レベルなテクニックである。これは単に女性タレントCの方向転換ができただけである。それ以外のさしたる効果は何もない。

 しかし、これまで考えてきた「恋の力学」を応用して考えるに、さらなる高度な「SEXYタレントの売り出し術」が考えられる。それはどのようなテクニックかと言えば、相手すなわち男性タレントAのイキオイを利用するのである。日本のお家芸の柔道のように、相手の力を利用してそれを自分のモノとするのである。

 こちらは、結構ハイテクニックなので判りにくいが、それをなんとか絵にしてみたのが次の図である。この場合、「男性タレント自身にもともとイキオイがある」ことが重要である。すなわち一般視聴者を基準とした座標系に対して、男性タレントA基準系は動いているのである。
 

男性タレントのイキオイを利用した「SEXYタレントの売り出し術」

 すると、一般視聴者を基準とした座標系では、面白いことに女性タレントのイキオイ自体も男性タレントに接近する前と後で変わるのである。もちろん、上の図を見てもらうと判るように、男性タレントA基準系では女性タレントのイキオイは方向が違うだけで、大きさはなんら変わっていない。しかし、それは男性タレントA自身がイキオイがあるためで、一般視聴者を基準とした座標系では女性タレントCのイキオイは増しているのである。赤い線で描いた「一般視聴者を基準とした座標系での女性タレントCのイキオイ」が最初と最後で違っているのが判るだろう。つまり、女性タレントCはこの接近戦でイキオイが増しているわけだ。これが比較的高度な「SEXYタレントの売り出し術」である。このテクニックを使えば、男性タレントの背後から近づけば女性タレントCのイキオイは必ず増すということになる。

 さて、それでは女性タレントCの接近相手

  • 男性タレントB : B級タレント。沖縄に店を経営していたりする。女性に「誠意」を見せるのが得意中の得意。
の場合はどうだろうか?この場合、まず男性タレントB自身にイキオイがない。ということは、男性タレントのイキオイを利用した「SEXYタレントの売り出し術」は使うことができないのである。せいぜい、「SEXYタレントの方向転換」くらいしかできないのだ。

 そして男性タレントB相手の場合には、もうひとつ問題がある。相手が名実共にA級のタレントAであると、タレントAは女性タレントCが近づいたくらいではビクともしない。しかし、それがタレントBの場合だと、あまりに重みがないために女性タレントCがタレントBに近づくと揺れ動いてしまうのである。そんな状態では「SEXYタレントの方向転換」すら上手く行くかどうか判ったものではない。誠意大将軍の彼を頭に浮かべて頂ければ、おそらく納得して頂けると思う。
 

 さて、今回は相手の力を利用して自分のイキオイを増す「SEXYタレントの売り出し術」方法を考えてみた。もちろん知っている人も多いだろうが、これはフライバイ(flyby)とかスイングバイ(swingby)と呼ばれるテクニックで、ロケットの軌道制御などに使われるテクニックだ。それを「SEXYタレントの売り出し術」に応用してみたわけだ。

 最初の方に書いたとおり、今回は「SEXYタレントの売り出し術」は「愛」の一応用例として考えてみたのだから、このフライバイを「恋・愛」に適用してみるのも面白いのではないだろうか?例えば、あなたが誰かに恋をして、その恋をすることで自分自身も輝いたりイキオイが生まれることがあるはずだ。このフライバイを行う限りは、相手とはすれ違うだけで、いずれ遠くへ離れてかざるをえないわけであるが、少なくともその「恋・愛」であなたが成長することもあるだろう。相手の後ろから追いかけて、そして少し方向を変えてまた離れていくときに、イキオイは必ず増すだろう。それは一つのフライバイ、「恋・愛」のフライバイと言っても良いのではないだろうか、と思ったりするのである。もちろん「SEXYタレントの売り出し術」と同じで、それは結局相手次第だと思うけどね。
 

2001-07-31[n年前へ]

水平線の彼方 

Over The Horizon

 先日、富士の五合目から地平線を眺めていたのだけれど、そこで「水平線の向こうには何があるのだろう?」なんてことをふと頭に浮かべてしまった。「そこまでしか見通せない」という線が水平線なのだから、もちろん水平線の向こうに何があるのか見えるわけがない。だけど、だからこそ「その水平線の向こう」に何があるのかが、少しばかり気になってしまった。
 


 そういえば、少し前に英和辞書を読んでいた時に、" on [over] the horizon"で「兆しが見えて,将来起こりそうで」を意味する、なんて書いてあった。「水平線の向こう、水平線の彼方」にある「何か」は「将来起こりそうな、何かの兆し」というわけだ。
 あぁ、そうかぁ、と私は思わず納得してしまった。確かに、水平線の向こうに例えばもし何かの波があれば、それはきっといつか私たちの目に見えるようになって、そして私たちの足元にまで辿り付くことだろう。水平線の向こうにある波は止まることなく進み続けているのだから、例え水平線の向こうにあっても将来必ず私たちの場所まで辿り着くのである。

 もちろん、水平線の向こうにある波を私たちが見通すことはできるわけはないのだけれど、だけどその気配を私たちはきっと感じるのだろうと私は思う。「水平線の彼方」にあるものは、「将来起こりそうな何かの兆し」であって、水平線の向こうにいるその気配には強い存在感があるはずだろう。
 

 そんな「水平線の彼方にある波」を考えるとき、私はこんな話を思い出す。
 

 地球はよく「水の惑星」と呼ばれる。確かに、そう呼ばれるくらいに地球には水が溢れている。何しろ、地球の表面積の七割が海なのだ。しかし、そうは言っても、地球の表面が全部水に覆われている、というわけではない。私たちが生活している陸地だって、「残りの三割だけ」とはいえちゃんと存在している。

 それなら、表面全部が水で覆われている「水の惑星」がもしもあったとしよう。そんな水の惑星のどこかで高い津波が生じたら、一体どうなるだろう?例えば、その水の惑星の南極である日突然津波が生じたとしよう。その時その津波はどんな風に伝わっていくだろう?

 その津波の動いていく様子を図示してみたのが、下のアニメーションだ。

南極(下)で発生した波は一旦小さくなるが、
北極(上)で再び大きくなる
 
 南極(図の下部)で発生した津波は進むに従って、段々と小さくなっていく。最初は南極の一点に集中していたエネルギーが段々と広がって拡散していくのだから、波が進んでいくにつれその高さはどんどん低くなる。そして、赤道を通過する頃には津波の高さはとても小さくなってしまう。

 ところが、その波が赤道を過ぎたとたんに津波は逆に強まりはじめる。赤道を通過した後は、津波の前方はだんだんと狭まっているので、こんどは津波のエネルギーが集まり始めるわけだ。それまでは、低くなる一方だった津波の高さは、今度は逆に徐々に高くなっていく。そして、ついに津波が北極に辿り着く時には、かつて南極で津波が発生したときの高さを再現してしまう。生まれた地点のちょうど反対側で、津波が生まれたときと全く同じ高波が発生するのである。

 私たちの裏側で津波が発生したとしても、その津波は徐々に小さくなりながら進み続け、そして私たちの足元でその津波は再び大きな高波となるのである。そして、その津波はその後も同じように進み続けて、また南極で大きな高波となる。南極から発した高波がもう一度南極に集まってまた高波となるとも言うことができるかもしれないし、あるいはそれは、北極で集まった高波が南極で集まってもう一度同じ高波となる、とも言えるだろう。

 自分と正反対の場所で生じた波が自分の足元まで辿り付いて、生まれた場所と正反対の場所で生まれた時と同じ大きな津波になっているということを考えると、どうしても不思議な感覚に襲われる。そして、自分と正反対の場所で自分の足元で生じているのと同じ高波が生じている、ということもまたちょっと不思議だ。まるで、自分と正反対の場所に「もう一人の自分」がいるみたい、だ。「もう一人の自分」が、自分からは見えない水平線の向こうにいるなんてちょっと面白い感覚だ。

 そしてまた、「水平線の彼方にある波」はそれと似たこんな話も思い出させる。
 

 宇宙の曲率が正で閉じた球状空間だった場合、私たちが発した光はどうなるだろう? 私たちからどんどん離れて行く光は空間の四方に広がって行くが、何時の間にかその光は徐々に近づき始める。そして、はるか彼方のある一点でその光が集まり、そしてまたその光は広がり始める…。そしてついには、その光は私たちのいる場所に集まり始める。私たちを取り囲む全ての方向から、かつて自分が発した光がやってくることになる。

 かつての自分があらゆる方向に見え出すのである。


 水平線の彼方には何があるのだろう?水平線の向こうを見通すことは、私たちにはできないけれど、遥か彼方にいる波は「将来必ず私たちの足元に訪れる」。そして、もしかしたらそれは「かつての自分が発した波」かもしれないし、「どこか自分と正反対の場所にいる誰かが発した波」かもしれないし、それは廻り回ってやっぱり、「自分が発した波」なのかもしないし、やっぱりそれとも…なんて考えてしまったのである。
 

2001-08-31[n年前へ]

モンロー・ウォークの伝説X 

努力、天性、それともそれとも?


 世の中には二種類の人間がいる。「オッパイ星人」と「ヒップ星人」だ。いやもちろん、そんな風に人間を二種類に分けられるハズもなくて、これは口からデマカセの大ウソである。とはいえ、そんなホラを吹く根拠が必ずしも無いわけでもない。

 何故ならば、「オッパイ星人」シリーズの話を書くたびに、「胸のことなんかいいから、お尻のことを考えてるべきではないでしょうか?」というメールが届くのである。「私は揺れる(時には揺れない)胸よりも、プリプリ揺れるお尻にこそ断然目が引き寄せられます!」との意見も多いのだ。しかも、それが男性ばかりからというわけでもなくて、女性からも(もしかしたら、女性の方が多いかもしれない)そういったメールが届くのである。つまりは、男女を問わず、「お尻(ヒップ)星人= 」という異星人もまた地球上には生息しているらしいのである。

 これまで、本「できるかな?」ではそんな異星人達を識別すべく、日夜戦いを続けてきた。ぼくの地球を守るべく、そんな異星人達の特徴を見つけ出してきたのである。例えば、オッパイ星人であれば、「オッパイ星人」達は「揺れ動くオッパイ」に目を常にロックインさせているという特徴を利用し、「視線が妙に上下・左右に揺れ動くエイリアン」達を見つけ出してきた。ブレードランナー(アンドロイドは電気羊の夢を見るか?)でアンドロイドを見つけ出す主人公さながらに、私は戦い続けてきたのである。そして、その主人公と全く同じく、最終的には私までもオッパイ星人であるかのような気さえするほどだったのだ。

 私のことはさておき、それでは同じような戦法で「ヒップ星人」を識別できるものだろうか?「オッパイ星人」達は「揺れる胸の動き」に目をロックインさせていたが、「ヒップ星人」達はもちろん「揺れ動くヒップの動き」に目をロックインさせているハズだ。その揺れるくヒップの動きさえ調べてしまえば、「ヒップ星人」達特有の「奇妙に揺れ動く不自然な目」を見つけ出すことができるに違いないのである。結局は、揺れ動くヒップを調べさえすれば良いのである。

 「ヒップ星人」達の憧れる「揺れ動くお尻」と言えば、それはもちろんマリリン・モンローに違いない。何しろ、お尻フリフリの象徴たるモンロー・ウォークの開発者なのだ(多分)。お尻フリフリ=マリリン・モンローと言っても良い位であるし、マリリン・モンローは「歩くお尻」と言っても良いくらいのハズなのである。

 というわけで、今回は何はともあれモンロー・ウォークを調べてみることにした。まずは、下の写真が「有名なお尻フリフリのモンローウォーク」の後姿である。
 

有名なお尻フリフリのモンローウォーク

 もちろん、静止画ではその揺れ動くヒップを実感できるわけもない。なので、モンロー・ウォークのバイブルとも言われているらしい映画「ナイアガラ」の1シーンを抜き出してみた。上がそのままの速度で再生したモンロー・ウォークで、下が奇数・偶数フィールド分離処理をして、半分の再生速度に変換したものである。

 何とも私には表現しづらいのだけれど、足の動きよりちょっと遅れてついてくる感じのお尻の動きが何とも言えずセクシーである。そのヒップの動きの素晴らしさ、じゃなかった不思議さをつらつらと考えてみたいのではあるけれど、それより先にちょっと不思議な話を考えてみる。

 まずは下調べ、とモンロー・ウォークで検索をかけると、例えばこんな情報がそこらかしこに見つかるのである。

<モンローウォーク/「ナイアガラ」ヒールの秘密>

 スクリーンで見るモンローの魅力のひとつにモンローウォークがあります。ちょっと赤ちゃんみたいにヨチヨチ歩く感じ。それとボディのきれいなラインと豊かなバストがちょっと揺れるアンバランス感が魅力的な歩き方。「ナイアガラ」のワンシーンで、永遠とつづく道を歩いていく後姿のロングショットで、よく見るとハイヒールの高さが左右ちょっとちがうんです。どっちかが擦り減ってるとかじゃなくて、ちゃんと演出されているんだと思うんです。だから、靴の片方にだけ中敷をいれればモンローウォークの真似ができると思いますよ。

 何と、マリリン・モンローはンローウォークのために右のヒールの高さを左のヒールより低くしていた、というのである。"Herfamous sexy walk was said to be aided by wearing very high-heeled shoes,with one heel a quarter-inch lower than the other"とか"shesawed a quarter-inch off the right heel of all her shoes to create thatswivel-hipped walk"という風に、どうやらその話は有名な話らしい。1/4インチだから、6mm程度マリリン・モンローの右のヒールは左より低い、というわけか。しかもそれは、先の「ナイアガラ」の歩くシーンを眺めれば確認することができる、というのである。

 そこで、目を皿にして、マリリン・モンローの揺れ動くお尻(じゃなかったヒール)に目をロックインさせてみたのではあるが、速いしブレるしで、全然判らないのである。そこで、その走査線の狭間に隠された真実を暴くべく、奇数フィールドと偶数フィールドを分離してみたりしたのではあるが、やっぱり判らないのである。ちなみに、下の画像がフィールド分離をした上での静止画例である。果たして、あなたは右と左のヒールの高さの違いが判るだろうか?右のヒールの方が左よりも短い、と断言できるだろうか?
 

映画"Niagara"でのモンローウォーク

 少なくともこの写真からは、私にはマリリン・モンローの右のヒールの高さが低いとは判断できない。まぁ、そもそも6mm程度の短さというのは、この動画から判断するのは無理なような気がしないでもない。

 そこで、他の判り易そうな画像をGoogleのImage Searchを使って調べてはみたが、やはり実際のところよく判らなかった。比較的判別しやすそうな下の写真を参考までに挙げておく。ぜひ、じっくり目をこらしてヒールの高さを判断してみてもらいたい。
 

マリリン・モンローのヒール

 ナイアガラなどのシーンを自分の目で眺めて、片方のヒールが短くカットしてあると判断した人は本当にいるのだろうか?巷にはモンローの片ヒールカットの伝説が溢れていて、「ナイアガラを見れば判る」とその伝説は言うのだけれど、本当のところその伝説を確かめた人がいるのだろうか?それはまさに幻の都市伝説なのではないだろうか?

 と、ここで終わってしまうといくら何でも私としても面白くないので、頭の整理も兼ねて、モンロー・ウォークの歩行模型を作ってみることにした。何しろ、映画の中にモンロー・ウォークのシーンがそれほどあるわけでもないし、それを眺めながらいろいろと考えるというわけにはいかないのである。ゆっくり動かしたり、色んな方向から眺めたりするには歩行模型を作るのが一番だろう。

 となれば、人間の歩行模型と言えばやはりコイツだろうというわけで、Poserの歩行シミュレーションを使って、ちょっと遊んでみることにした。モデルのヒールの高さ(実際には足底の厚さ)を変えてみた場合と、普通の場合とを比べてみるのである。左が普通?の場合で、右が片ハイヒールカット(マリリンモンローの場合とは反対であるが左足)の場合である。
 

Poserを使ったセクシーウォーク
普通?の場合
片ハイヒールカットの場合

 ふむふむ、確かに片ハイヒールカットの場合にはセクシー度がアップしているような気がする。なんと言うかプリップリップリップリッ…というか上品にオノマトペで言えばプリップリップリップリッ…というか(全然変わってない)、

 しかし、片ハイヒールカットをすればセクシーさが増すと言っても、実際のところマリリン・モンローのハイヒールの高さが左右不ぞろいになっているかは確認できていないのである。このままでは、砂上の楼閣ならぬ砂上のモンローウォークなのである。もしかしたら、マリリン・モンローの歩き方が特にセクシー度がアップしているのは他の原因があるのでは無いだろうか?果たして、他に可能性は無いのだろうか?それを少し考えてみることにしたい。

 マリリン・モンローは比較的ぽっちゃり型であって、もともとお尻が少し大きいように私には思われる。言い換えれば、マリリン・モンローは安産型で骨盤が広いのである(多分)。腰の横幅が広いということは、どうしても左右の水平安定性に欠ける訳で、どうしても左右の腰の高さがユラユラとゆれてしまうのに違いないと私は思う。しかも、左右の腰自体の幅が長ければ、それが揺れたときの存在感もやはり大きいわけで、骨盤の長さが長くなると二つの独立した理由によりセクシー度がアップするハズなのである。ということは、骨盤の長さの二乗に比例してそのセクシー度はアップするハズなのだ。

 そこで、そんな安産型の女性が普通に歩いた場合の後姿を同じくPoserで眺めてみることにしよう。ちなみにここでは腰の幅を10%程普通の場合よりも広くしてみた。すなわち10%アップの安産型お尻の場合である。
 

普通の女性と安産型の女性が歩いたときの後姿の比較
普通?の場合
安産型の場合

 やはりお尻部分の横幅が10%アップしている分だけ揺れるお尻の存在感もアップしている。そして、さらにはお尻の動きが少し遅れているのか、こちらも方ヒールカットの場合と同じく、通常のフリッフリッフリッフリッ…に比べてセクシーなプリップリップリップリッ…のテイストを感じざるをえない。セクシー度は10%アップどころではなくて、30%くらいはアップしているような感覚さえ受けるのである。やはり、骨盤の長さの二乗に比例してそのセクシー度はアップする説は正しいに違いないのだ。

 この歩行模型ではないけれど、マリリン・モンローの場合もやはり骨盤が通常よりも広く、ただでさえ歩くときに左右の腰の高さ、いやはっきり言えば左右のお尻の高さが大きく変わりやすく、通常のフリッフリッフリッフリッ…がセクシーなプリップリップリップリッ…に変化したのではないだろうか?方ヒール説も面白いが、この単に安産説だってとても自然だと思う。

 ところで、もちろん先の片ハイヒールカット作戦をこの安産型プリップリップリップリッ…にさらに加えてやれば、もちろんもっと効果的なセクシー歩行になるわけで、それを実際に眺めて見たい!というわけでやってみたのが、次の比較である。何と言うか、普通の場合に対しても、さらには単なる片ハイヒールカットを行った場合よりも、安産型+片ハイヒールカットでセクシー度がますますアップしているように思われる。通常のフリッフリッフリッフリッ…が見事なまでに官能的なプリップリップリップリッ…に昇華していることが判ることだろう。
 

安産型の女性がさらに片ハイヒールカットを行うと…?
普通?の場合
 

安産型の女性が
さらに
片ハイヒールカット
を行った場合

 本当のところ、今回映画や画像を眺めた範囲内では、マリリン・モンローの片ハイヒール伝説が本当なのかはよく判らなかった。「色々なことを考えている女性だった」というイメージにモンロー自身がしたかったり、あるいは周りがしたかったせいで生まれた伝説でないかとも思ったりする。もしかしたら、モンローは単にとっても安産型の女性だったせいで、あの歩き方になったのではないだろうか、とつまらなくも想像したりもする。

 とはいえ、私も浪花節の好きな日本人であるので、単なる偶然のお話でなくて「そこに隠された物語」のある方を気に入ってしまうタイプである。なので、モンローは生まれ持った安産型の体型を、つまりモデルや女優にはウィークポイントになりがちな欠点を、苦悶の末に片ハイヒール作戦によって長所へと変えて、あの有名なモンロー・ウォークを開発したとプロジェクトX(もういいかげん止めて欲しいと切に願っているのだが)風に考えておくことにしたいと思う。あぁ、何てキレイなまとめ方だろう…。

2003-01-19[n年前へ]

空気が映っている景色 

 休日に外を歩くと、水で洗われワックスがけされている車をよく見かける。洗車されてワックスがけされた後の車には色鮮やかな存在感がある。洗車される前の煤けた色の車とは全然違う。そして、そんな景色を見ると、その車の存在感だけではなくて、車の周りの空気の存在感も確かに感じることができるようになる。

 江国香織は「都の子 」の中でそんな景色を「雨に濡れたものの色が、ああも冴えざえするのはどうしてだろう。… 雨は、すごくどきどきする。 … 冴えざえ、という言葉の持つしずけさを、視覚化したみたいな眺めだ」という風な言葉にする。

 どんなものも表面に凹凸があって、その表面で周囲から来た全ての色んな光が反射して私たちの目に入ってしまう。だから、私たちが見ている「何か」の色は、その「何かの色」だけでなくて「周りの全ての色」が混じり合った濁った色になっている。だから、私たちが見ている「何か」の色はどうしても鮮やかな色にはならない。だから、雨やワックスがそんな表面に凹凸を埋めて、表面を覆ってしまえば、私たちはその「何か」の色だけを見ることができるようになる。緑の葉は鮮やかな緑だし、影の部分はしっとりとした黒になる。だから、雨に濡れたものの色はとても冴えざえするし、その「冴えざえ」は周りの空気の透明感も映し出すようになる。

 そして、そんな光の反射だけでなくて、雨が上がった後の空には柔らかくも強い陽が差していることが多い。そして時には虹だって見える。雨が上がれば、そんな景色を眺めるために街へ駆け出すのだ。



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