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「逆さメガネ」 

「逆さメガネ」

(2006.12.24)

奇妙な世界

 逆さメガネというものがある。言葉の通り、それは単に上下を「逆さ」に反転した世界を眺めることができるメガネだ。そのメガネをかけた瞬間から、青空は、私たちの足下に広がる底なし沼に姿を変えてしまうし、アスファルトに覆われた地面は、私たちの頭上を圧迫するかのように覆う天井のように見えることになる。そして、道路を歩く人々は、頭上を覆うアスファルトに足を貼り付け、コウモリのようにぶら下がりながら歩く奇怪な動物に変身してしまう。そんな風に、逆さメガネをかけると、目の前の世界がそんな異次元空間に変化してしまう。

 とはいっても、逆さメガネをかけて2週間も生活もすれば、人の脳はその「奇妙な異次元空間」に慣れてしまうらしい。そして、これまで眺めていた景色と同じ上下関係の世界、すなわち、正立した空間として外界が認識されてくるのだという。それどころか、その時点で、もしも逆さメガネを外したりしたなら、「いつもの世界」こそが逆さまの不思議な風景に見えてしまうともいう。

暗闇

 今年の夏、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク "Dialogue in the Dark"」というイベントを体験してきた。一ヶ月間だけしか開催されず、しかも一日八人二十組だけしか参加できない、というイベントだ。イベントの主催者の紹介文をそのまま引用すれば、それは『日常生活のさまざまな環境を織り込んだまっくらな空間を、聴覚、触覚、嗅覚、味覚など、視覚以外の感覚を使って体験する、ワークショップ形式の暗闇のエンターテイメント』ということになる。その内容を、もう少し具体的に言ってしまえば、『案内人に導かれつつ、八人一組で完全に真っ暗な世界を散策して回る』というものだ。

 参加者は、明るいロビーで開演を待ち、指定時間になると八人ほどが小さな部屋に呼ばれる。そして、カーテンで仕切られたいくつもの部屋を経て、真っ暗な世界へと近づいていく。最初の部屋で、私たち参加者は白い杖を渡される。そして、完全に暗い世界の入り口で、暗闇の世界の中で私たちを導き歩く案内人と会い、その声に誘われるまま、暗黒の世界に足を踏み入れていく。

 完全な暗闇、光がひとかけらもない世界で私は色々なものに遭遇した。人だと勘違いして、目の前に立つ電信柱や木々に向かい、ずっと話しかけていたりしたこともあった。あるいは、周りにいたはずの参加者たちがずっと先に行ってしまい、真っ暗な林の中で一人取り残されてしまったりもした。そんな時は、いつも、案内人が助けてくれた。例えば、私が少し疲れて休んでいると、その気配を察したのか、案内人は私の名前を呼び「~さん、大丈夫ですか?」と声を掛けたりもした。いつも、案内人は私たちの声を聞き、私たちの場所を見つけ、私たちが進むべき方向を教えてくれた。

順応

 一時間より少し長いくらいの時間を、私たちは光が全く存在しない世界で過ごした。夏の田舎祭りを心から楽しみ、里山を恐る恐る散策し、疲れたら祖父母の家で休んだりした。時には屋台でソース煎餅を食べ、時にはバーに入ってドリンクを飲む。私たちの周りを転がっていく大小の音に心から耳を澄ませ、顔を撫でていく空気の流れを皮膚全体で感じ、微かに薫る匂いに想像力を働かせる。そんな違う感覚で味わう世界に、私は慣れていった。

 それは、その世界が普通に見えてきた、ということだったように思う。光が全くない「逆さまな世界」に、ほんの少しづつ、私は順応していった。「ものを見ることができない自分」に慣れ、「他の人に助けられながら恐る恐る前に進む自分」に慣れ、いつでも自由自在に動き廻る案内人に導かれることで、私はその世界の中を半歩づつ歩んでいった。

 一時間より少し長いくらいの時間が過ぎ、私たちはその暗闇の世界を出ることになった。暗闇の世界から、いくつもの部屋を経て、どこからか少しづつ光が溢れてくる世界に向け、私たちは移動していった。最後の防護壁のような分厚い暗幕を空けて、光が満ちる廊下へ出ると、私たち参加者は椅子が丸く並べられた部屋に入った。私たち八人が適当に椅子にバラバラに座っていると、最後に案内人がその部屋の入り口に姿を現し、私たちに言った。

上下感覚

「どなたか、空いている椅子の場所まで私を案内して頂けますか?」「どの椅子が空いているのか、わからないんです」白杖を持った彼女は微笑みながら、そう私たちに頼んだ。

 彼女の言葉を聞いて、私はまるで地面が反転したような不思議な感じを覚えた。世界の水平感覚、あるいは、上下感覚といったものをふと見失ったような感じがした。

 彼女が白杖を持ち慣れている人だろうということは、暗闇の世界を歩いている時から当たり前のように感じていた。彼女が部屋に入ってきた瞬間に、彼女が全盲なのだということも目に見えてわかっていた。だから、彼女が全盲だったということでなく、彼女の口にした言葉が、彼女が私たちに何かを頼んでいるということが、何か不思議な違和感を感じさせたのだと思う。

 その瞬間に私が見ていたのは、いつも私が眺めていた風景だ。光を発するものに目を向けさえすれば、手が届く近くのものも、あるいは百万光年の彼方に輝く星も、あらゆるものが見える当たり前の世界によくある景色だ。白杖を持つ人が部屋に入ってくれば、、その杖の持ち手の視力が高くないことがわかり、部屋に入って見渡せば、どの椅子が空いているのかが一瞬でわかる世界だ。その世界で、白杖を手にする人が誰かに何かを頼んでいる、それは確かに決して珍しくはない、よくあることだったと思う。

 しかし、ほんのさっきまで「たとえるなら、千里眼を備えるかのように私たちを連れ歩いてくれていた彼女」が、手が届く場所にある椅子が空いているかどうかがわからず、私たちに案内を頼んでいる。その景色は、私にとって、何だかとても変で奇妙な逆さまの奇妙な世界に見えた。彼女は私たちが助けを求め、私たちが何かを頼む相手だと、私は感じていた。彼女は私たちに何かを頼む存在ではなかったはずなのに…と、戸惑いを感じた。

 そんな、腑に落ちない少しの違和感を抱えたまま、会場を出て明るい世界を歩いた。

相対的な世界

 しばらくして、こう考えた。私は、光のない世界の中で案内人だった彼女と出会った。だから、私は彼女がいつでも世界を自由自在に動くことができる存在なんだと感じていたのではないだろうか。もしも、彼女と最初に出会った場所が別の状況、たとえば「光と障害物があふれる世界」であったとしたら、私はまた違う戸惑いを受けていたのかもしれない。もしかしたら、私は、光がない世界を自由自在に動く彼女たちに驚きを覚えたりしたかもしれない。何で、明るい世界での動きと違ってこんなに自由自在に動くことができるのだろう、と感じたりしていたのかもしれない。それは、最初に出会った世界での印象に強く影響を受けていた、ということなのだろう。ひとことで言えば、つまり「先入観」だ。

 助けるだけの存在がありえないように、助けられるだけの存在というものもきっとない。私たちが立つ空間に、絶対的な上や下という方向が存在しないように、全知全能の神もきっとこの世界には存在しない。少なくとも、人という生き物はそんな存在ではありえない。色々な状況の世界が数限りなく存在していて、私たちはその上下軸を定めようがない相対的な世界の中で、それぞれがそれぞれの方向を向いて立っているのだと思う。

 「光がなくなる」という逆さメガネを私はかけ、一片の光もない真っ暗な世界で少しの時間を過ごした。その世界に順応した後に、逆さメガネを外して、これまで暮らしていた世界に戻った瞬間、私は小さな混乱を感じ、小さな発見をした。そして、これまで眺めていたつもりの世界や人々が違う姿に見えてみたように思う。

 このメガネを色んな人がかけてみることができるのであれば、それが何より一番いい。ただ、今のところ、このイベントは残念ながら常時行われているわけではないので、このメガネを誰もが気軽にかけることができそうにない。だから、私が見た「逆さメガネ」の世界を、ここに書いてみた。

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