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2011-05-29[n年前へ]

原発事故関連の処理が適切に行われていない原因 

 原発事故関連の処理が適切に行われていない原因は、「状況分析・策提案」あるいは「策選択・実行」を行うはずの立場にいる人が「行うべきこと」を取り違えていることに尽きます。たとえば、自らが「行うべきこと」を理解していなかったり、「行うべきこと」をはき違えて「行うべきでないこと」をする専門家がいるがために、多くの問題が生まれています。ちなみに、ここでいう「問題」というのは、適切でない選択・責任の不在という2つの弊害を生む原因を指しています。

 「再臨界の可能性はゼロではない」という原子力安全委員会 班目春樹委員長の言葉は「行うべきこと」を理解していないことによるものであるように思えます。また、「(年間の許容被曝量)20mSvから引き下げたら、(大勢の人を)避難させなければならないでしょう?これだけ大勢の人を、何処に避難させるというんですか?(だから、年間の許容被曝量を20mSvから引き下げるわけにはいかない)」という福島県放射線健康リスク管理アドバイザーたる長崎大 山下教授の言葉は、「行うべきこと」をはき違えて「行うべきでないこと」をしている端的な例に感じられます。

 何かしら大きなことを為そうとする場合、個人の力で対応できるわけがありません。だから、多数の専門家が(その担当分野での職務を遂行しつつ)関わることになります。その職務は、「行う策を決める」「策を行う」という2つの側面に分かれますが、これらの2側面のうち、問題になるのは「行う策を決める」という側面です。なぜかと言えば、「策を行う」段階で問題が起きるのであれば、それは「策選び」の段階で「(策遂行の段階で生じる可能性がある)問題発生を予測できなかった」という点において、適切でない選択をしたと判断されるからです。

 「行う策を決める」ということに関わる人たちは、「各々が担うべき観点から状況分析と策選択を行う」という職務を担います。策を実行する権限がなければ、その策を提案します。つまり、「どうすべき」という提案をします。そして、策を実行する権限があれば、策を選択した上でさらに実行する、ということになります。それを端的に言えば「どうする」という判断を行った上で「行う」ということです。

 ここで重要なのは、「状況分析」の段階では可能性・確率を使うことができる、つまり、長い目で見れば(もしかしたら)正確に合っているかもしれないことを語ることができるかもしれないのに対し、「策を選択する」ということは、「合っているかもしれない・けれど間違っているかもしれない」という「結果的には良くないことをするかもしれない」という「ひとつの選択」のみを顕在化させるということです。そして、その選択の結果生じたことの責任を負う、ということです。「状況分析」から「策選択・提案」をするという白線を越えた瞬間に、責任が発生するのです。

 「○×が起きるのは、何パーセントの確率だ」という正しいけれど安全な場所を過ぎ、「○×は起きないと判断する」と言わなければならない(必ずしも正確でなく・しかも自らの責任を問われる)理不尽なことこそが「”選択”をするという立場」です。

 「再臨界の可能性はゼロではない」という原子力安全委員会 班目春樹委員長の言葉から感じるのは、「状況分析」に留まっていて、「各々が担うべき観点からの策選択を行う」ということを自らが担うべきことだとは認識していない姿勢です。「状況分析」を間違うことによって評判を落とすことを気にはしても、その先にある選択・提案(さらには責任)までを担うものとは考えない意識です。

 …再臨界の可能性はゼロではない、きっとそれは100パーセント正しいのでしょう。問題は、100パーセント正しくない可能性があるにしても、「再臨界はしない(あるいはするかもしれない)、だからこうすべきだ」という提案をしなければいけない立場なのに、それをしない(それをしなければいけない立場であることを意識しない)態度です。評論や解説をするという無責任な立場と、そうでなく「選択・提案・実行」をするという責任を負う立場の違いを理解しない意識です。

 「(年間の許容被曝量)20mSvから引き下げたら、(大勢の人を)避難させなければならないでしょう?これだけ大勢の人を、何処に避難させるというんですか?(だから、年間の許容被曝量を20mSvから引き下げるわけにはいかない)」という福島県放射線健康リスク管理アドバイザーたる長崎大 山下教授の言葉に思うのは、「各々が担うべき観点から状況分析と策選択(提案)を行う」という責任を色々なことをごっちゃ混ぜにしてしまうと、「放射線健康リスク」という担当分野から最善策を提案するという立場を無視する姿勢です。健康リスク以外の状況を鑑みて「策を選ぶ・選ばない」という政治・経済的選択に悩み・責任を負うのは、放射線健康リスク管理アドバイザーとは別の立場を担うものであるはずです。

 「政治的・経済的」な判断に対し、それが正しかったのか・間違っていたのかという判断を下せる人はこの世に存在しません。けれど、「射線健康リスク」という担当分野からすべき「選択」を、そんな政治的・経済的な選択の陰に混ぜてしまうことは、適切でない選択・責任の不在を生むに違いないと思います。山下教授の言葉にあるようなことは、年間の許容被曝量を前にこれからどうすべきかという健康面からの解決指針ではなくて、それ以外のコスト・メリットとリスクをも天秤の上に乗せた選択の話です。…けれど、それは「福島県放射線健康リスク管理アドバイザー」にまかされることではないのです。自分が持つべき天秤とは異なる定規を、振りかざしているのです。

 「発生確率」「現状解析」で説明すれば良い世界もあれば、何かしらの「提案・選択」をし、それに伴って未来への責任が生じる世界もあります。原発事故関連の処理が適切に行われていない原因は、そんな世界・立場に対する認識の(間)違いがあるようにも思えます。


 蛇足ながら書けば、広い範囲のことを考えるなら、 十年程度の前の文章「リスクをめぐる専門家たちの"神話"」をプリントアウトして読めば、良いように思います。この一片の文章があれば、もうそれ以上の文章がなくとも良いと思います。その文章に書かれている問題が必然的に生じるものであるとしたら、それを生じさせる理由を考えてみたくなります。

2011-08-24[n年前へ]

「視野を狭くせず、さらに、総合的に捉える視点」 

 加藤陽子さんに話を聞く「池上彰の「学問のススメ」」”なぜ現場任せで、トップマネジメントが機能しなくなるのか?”を読みました。

 なぜ戦争に負けたのか、なぜ原発は事故を起こしたのか、という点について、「庶民」とは反対側、「トップマネジメント」に焦点をあてて考えていきたいと思います。
 加藤陽子先生の歴史を「その時の状況に沿って考え・整理し直す」やり方は、とてもわかりやすく・新鮮で・面白い。池上彰さんには、ぜひ聞き役・狂言回し・黒子に徹して欲しかったと思います。

 対談中に登場する「戦時中のロジスティクス」という言葉で連想した、日本における日露戦争時の「ロジスティクス」や「経済・外貨問題」に関する言葉を、今日もう一度書き留め直しておきます。

 秋山真之と児玉源太郎に共通する特徴として、戦場の戦闘行為だけに目を奪われないということがあります。秋山は、ロジスティックス、つまり戦争の支援業務が重要だと言っていますが、児玉はもっと広くて、戦争を総合的にとらえる視点を持っていました。たとえば、戦費調達のための外債公募が上手く行くようにと、日露戦争の緒戦(初めの頃の戦い)で目立つ戦果を上げるべく作戦を考えている…。

秋山真之と児玉源太郎

 そう、後ろを支える大動脈・大静脈であるロジスティクスはとても重要で・欠かすことができない、そして、実はもっとも大切な黒子です。

 池上彰さんには、ぜひ聞き役・狂言回し・黒子に徹して欲しかったと思います。



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