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2000-02-14[n年前へ]

ウルフルズ空間の一次独立 

殿馬のベクトル空間

ウルフルズ空間の一次独立

 本屋で何の気なしに買った

  • 別冊宝島491 音楽誌が書かないJポップ批評5 宝島社
の中の広瀬陽一氏の「ウルフルズ」を話題にした話が面白かった。その内容を大雑把に紹介すると、
  • 漫才師が演芸場の観客中に見る「決して笑わない客=死神」は、漫才師が「見えていないもの・言い忘れたこと」を囁き続ける。ウルフルズにとってJohn.B.Chopperはその「決して笑わない客」であった。
  • 重しとしてのJohn.B.Chopperがいなくなったウルフルズには「底抜けの明るさ」がなくなった。
  • 「できることは…自分の席の傍らに、どんなに混んでいようと、自分の死神のための席を一人分確保すること」という言葉をウルフルズに贈る。
というものである。

 やはり、同じような話題でfreddie氏の

もとても興味深い。こちらは
  • ウルフルズにとってJohn.B.Chopperは冷静な判断を仰ぐことができる存在ではなかったか、
  • John.B.Chopperのような人は、ある種残酷なところを持ち合わせていて、興味がなくなればあっさりと次へ行ってしまうのではないか、
という内容である。

 これらの二つの文章の視点を考えてみる。まずは、広瀬陽一氏の文章は

  • 「一人」を欠いてしまったバンドを第三者的に眺めた文章
である。一方、freddie氏の文章は
  • 「一人」に去られた側の視点から書かれた文章
である。

 そこで、私は死神としての「一人」を主人公として捉えた視点から考察をしてみたい、と思う。
 広瀬陽一氏の文章中にとても面白い内容が書かれていた。John.B.Chopperを指してトータス・松本が言った言葉

 「ドカベン」で言ったら殿馬みたいなヤツ。ひとりだけ客観的で、でもセンスはある。僕はそういうところが愛おしかったんねんけどね。僕らは、この仕事に自分は向いているかどうかでは、悩まない。でも、あいつはその悩みから逃れられんかったからね。( 「R&Rニューズメーカー」 2000/1 )
である。

 このトータス・松本の言葉はとても的確だと思う。特に、「この仕事に自分は向いているかどうかで悩む」というところだ。そして、「ドカベン」の殿馬を出しているところがまた非常に面白い。「ドカベン」の中では殿馬は常に野球を続けるかどうかで悩み続けている。

何か足んねえづら ドカベン 殿馬一人特集より

 あるグループ(バンド)を考えてみる。そのグループを構成するメンバー達にはそれぞれ各自のベクトルがあるだろう。それらの各メンバーのもつベクトルの組み合わせで表現できる世界が、そのグループ(バンド)が表現できる世界であり、空間である。

 いきなり、グループ(バンド)の話からベクトルか?と思われるかもしれないが、そう不自然ではないだろう。何しろ、よくバンドの解散やメンバーの脱退で使われるフレーズは「各自の方向性(ベクトル)が違った」である。そうベクトルなのである。

 さて、あるメンバーのもつベクトルが、他のメンバーが持つベクトルを組み合わせてみても表すことのできない場合がある。つまり、一次独立である場合だ。グループ(バンド)の表現できる世界を広くしようと思ったら、メンバー各自は一次独立である方が良い。n人のバンドで各自が一次独立であれば、n次元空間を表現できる。

 実際には、グループ(バンド)のメンバー各自が一次独立だったら、「各自の方向性(ベクトル)が違った」で解散することになるだろうから、一次独立なメンバーは一人(ないしは二人)が良いところだろう。だから、その貴重なグループ(バンド)の一次独立ベクトルは表現空間の広さのために極めて重要だと思うのだ。

 ただ、その「一人」は他のメンバーから一次独立であるが故に、「独立」していくことが多いはずだ。ザ・ドリフターズの荒井注もそうであるし、ウルフルズのJohn.B.Chopperもそうだ。トータス・松本の「John.B.Chopperが音楽を続けるかどうかで悩み続けていた」というのは、「John.B.Chopperがドカベンの殿馬である限り必然」といえるだろう。

そしてまた、彼らが「独立」してからのグループは前とは明らかに変わってしまった、という人も多い。それもまた、重要な一次独立のベクトルをなくしたのだから当然である。

 ところで、「ドカベン」の殿馬の名前は「一人(かずと)」である。確かに、そうでなくてはならないだろう。



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