hirax.net::Keywords::「角田光代」のブログ



2010-11-14[n年前へ]

「使ったお金」が「何か」を作る。 

 「無理せず節約するコツ」という文章を読み、ふと、こんな言葉を思い出しました。

 少し言葉をはぐらかせる癖がある、そんな角田光代の著書の一冊に「しあわせのねだん 」があります。この本の中で、角田光代は20代の頃の日記を読み直しながら、その頃のお金の使い方を思い出しつつ、こんなひとりごとを書くのです。

「二十代のとき使ったお金がその人の一部を作るのではないか」
「三十代に使ったお金というのも、きっとこの先なんらかの意味を持つのだろうと思う」

 「二十代」「三十代」・・・そして、その人という自分自身、あるいは、自分ではない他人であるこどもの”この先”を考えたとき、未来へ何かを残そうとする私たちが身の丈をわきまえることができるのだろうか、あるいは、もしも身の丈をわきまえたとき、一体その先には何があるのだろうか?とも思うのです。

 「これだけ損が出来る」ということが「豊かさ」を作るのだろうか、と思うことがあります。もしかしたら、「損が出来ること」こそが「豊かさ」なのかもしれないとさえ感じることもあります。宵越しの金は持たない江戸っ子なぞは、さぞかし「豊か」に違いない、と考えるのです。

あぁ、これだけ損ができる

 「損をする」ことができないとき、節食という言葉のダイエットをせざるをえないとき、ふとこんな言葉を思い出して、少し悲しくなったりします。

 外へ外へと向かっていくそういうエネルギーがなかったら、人類はいまだに洞窟の中で暮らしてたんだろうか。

「イラクと幕末」

 「外へ外へと向かっていくエネルギー」と、宵越しの金は持たない江戸っ子のパワーは、何だか少し似ているような気がします。

2011-05-13[n年前へ]

持ち続ける「パンドラの福袋」 

 角田光代「福袋 (河出文庫) 」から。

 ひょっとしたら私たちはだれも、福袋を持たされてこの世に出てくるのではないか。福袋には、生まれ落ちて以降味わうことになるすべてが入っている。希望も絶望も、よろこびも苦悩も、笑い声もおさえた泣き声も、愛する気持ちも憎む気持ちもぜんぶ入っている。「福」と袋に書いてあるからってすべてが福とはかぎらない。袋の中身はときに、期待していたものとぜんぜん違う。…ほかの袋を選べばよかったと思ったりもする。それなのに私達は袋の中身を捨てることができない。

角田光代「福袋」
 角田さんの小説は人生を手ばなしに肯定しない、否定もしない、あるがままの人生が描かれている。…私達は福袋の中身を選べない。捨てることもできない。…私たちにできるのは、味わうことだけだ。すべてを自分だけのものとして、一生かけて慈しみ、ひたすら愛でるのだ。

栗田有起「解説」

2011-05-17[n年前へ]

「児玉清」と「25人の言葉」 

 児玉清が25人の作家にインタビューした児玉清の「あの作家に会いたい」 から。

 才能を競い合える場所まで行けるのは努力した人間だけです。

夢枕 獏
 そこまでの努力をしないで、才能がある・ないと言っているのはつまらない話ですよね。

児玉 清

 実際の社会は、自分のなりたいものになれなかった人が大半でしょう?

角田光代
 俳句とか数式とか、型の中に静かに収まっている、すべてを削ぎ落とした一行こそが、実は最も美しく、最も多くを物語っているのかもしれません。

小川洋子
 ずいぶん前に「愛は勝つ」という歌が流行(はや)りましたが、この世の中は往々にして愛は勝たないということをみなが知っているから、あえてこの歌を聴く。

北村薫

 25人の残りの人、たとえば江國香織や万条目学や、川上弘美がどんなことを児玉清に伝えたかは、頁をめくればわかります。

2011-11-18[n年前へ]

「わたしが何を信じたいか」を書けばいんだ 

 角田光代「学問ノススメ」から、「対岸の彼女 」を書くに至るまでの「編集者の言葉」など。

 今、世の中に残っている小説は、全部、希望を書いてる。だから、あなたも人にあなたの本を読まれたいと思うなら、「希望」を書きなさい。
わたしが何を信じてるかじゃなくて、
わたしが何を信じたいかを書けばいいんだって思って…

2012-02-05[n年前へ]

「才能」と「孤独」 

 角田光代「これからはあるくのだ 」から。

 私はもう才能なんて言葉を信じてはいない。ものごとに長けるということは、好きか、嫌いか、そのどちらかしかない。

「才能なんて」
 不安も退屈も孤独とまるっきり関係がない。 郵便局と格安チケット屋くらい違う。
 ではひとりの旅がまるっきり孤独とは無縁かというときっとそんなことはなくて、いわば、手に手を取り合って移動し続けている、そんな感じなんじゃないかと思う。ひとりでいるということ。それはときには興奮的で自由で、あまやかなことにもなりえる。

「孤独三種」



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