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2004-05-14[n年前へ]

バッドノウハウカンファレンス 

資料 バッドノウハウカンファレンス 2004の発表資料のHTML版PDF版資料は大きく分けて二部構成。前半は(例えそれがバッドでも)ノウハウを得る過程を楽しむ視点から。もう一つはバッドノウハウを無くしていかなければならない立場から(だけど結局バッドノウハウ)です。つまり、一見逆の視点からの二部構成です。
 途中、段落の表示順番が狂っていたりしますが、そこはそれ適当に(IEなら右下に表示されているボダンでも使って)スライドショーで眺めて見て下さい。ブラウザを選ぶので、見ることができない方はPDF版の方でどうぞ。

 発表を聴いている中で興味深かったことの一つは、「バッドノウハウが居着く環境はまず間違いなくプログラマブル」ということ。だから、「何かができる。だから楽しい」という気持ちにさせてハマる、という話。逆に言ってしまえば、そのプログラマブルな部分を除いてしまったら、融通の利かないツマラナイ世界があるのかもしれない。

 自分の発表の前までは、笑いながらも感心したことをメモする余裕もあったが、後半はその余裕もなく笑い続けていた。それでも「sendamailはBerkeley Unixのベトナム。C++は90年代のCOBOL」というキャッチーなTHE UNIX HATERS handbookのフレイズはなんとかメモをする(from Unix is the Bad Knowhow)。


 夕暮れ過ぎに駅から会場に向かって歩いていくと、なんだか少し蒸し暑い。これは、いかにもアジアの夏なんだなぁ、と思う。ビールを飲んだら気持ちよさそうだなぁ、と思いつつ眺めた、駅の近くの花屋や、線路越しに見た駅や、会場から眺めたいくつかのビル。会場に入る前に、中庭でベンチに座ってほんの少し資料を手直しをしていると、空には飛行船が浮かんでいる。夏の空だなぁ。

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2004-07-12[n年前へ]

コインには2つの面がある 

 未来を眺めるためには、まずは過去を眺めるべき。未来は可能性の宝庫だが、過去は知識の倉庫だ。だから、今日は古い記事を眺めてみよう。

MITの最初のハッカー達の書いたプログラムは、その言語なんか関係なく、とにかく完全で、美しいものだったんだ。努力に努力を重ねて뒰꓊ꓢ꓎꓋믅뻥꒲꒿꓎꒵ꆣ쎯꒬뢫꓆ꓢꆢそれ以上改善する余地はまったくないほどにね柴田 ただ、あまりにも短く最適化してしまうと、人がそれを見たときに理解しにくいという難点がありますよねそれはそうだよ。でも、それを理解しようとする努力は、必ず報われるんだよ。努力して理解できるようになったときに、何かを学ぶことができるんだ。だから、コインには2つの面があるということさSteve Wozniak
 ちなみに、インタビュアーである当時の柴田文彦氏は某有名事務機メーカ勤務のエンジニア。つまり、Macintoshが影響を受けたAltoを作った企業系である(現在の私の)ライバル会社のエンジニア。そして、この文章中で語られている「appleの高解像度モード」がClearTypeCoolTypeグレーフォントFreeType 2にほぼそのままの形で繋がっている。「appleの高解像度モード」が作られたのが'76年のこと。他の技術はいずれも'90年代中盤以降のこと。一番早いものでさえ、20年近く後のこと。やはり、過去は可能性の元となる知識の巨大倉庫だ。

 それにしても、このインタビューの原文の台詞を知りたい。

2009-10-15[n年前へ]

世の中には「騙す人と騙される人」の二種類しかない 

 堀井憲一郎「若者殺しの時代 (講談社現代新書) 」中の「1989年の一杯のかけそば」から。

 世の中には「自分は人を騙さない。でも人からも騙されずに生きていたい」というムシのいいことを考えてる人が多いこともわかった。僕は、世の中には「騙す人と騙される人」の二種類しかないとおもっている。
1 騙す人
2 騙される人
これで全部だ。どっちかを取るしかない。
 どちらかを選ぶしかない。もちろん騙されるほうに立っても、大きく騙されることもなく生涯を終えられることもあるだろう。騙す側を選んでも、表立って人を騙すことなく、平穏に人生を過ごせる可能性だってある。でもそれは結果である。どっちのサイドにつくかはきちんと自分で決めないといけない。人生の成り行きは自分では決められない。

2010-03-05[n年前へ]

ハッキリ言って『スカ』な「xx年代の正体」 

 中町綾子「ニッポンのテレビドラマ 21の名セリフ 」の「バブル期のテレビ番組」から。

 1990年、別冊宝島は『80年代の正体!』を出版し、「それはハッキリ言って『スカ』だった」と、その文化状況をばっさり切り捨てた。
 では90年代はどうだったのか。(中略)ばっさり切り捨てるほどの文化もない。
 では、ミレニアム'00年代の文化はどうだろうか。現在の文化、'10年代の文化はどうなっていくだろうか。

 もしかしたら、「つねに、方法論で逃げていただけであり、そこには実体がなく、結局は流行の奴隷になっただけだ」という『スカ』な『80年代の正体』と同じなのかもしれない。あるいは、この「同じ」ことは、その分量は変化するかもしれないが、いつの時代にもあることなのかもしれない。



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