hirax.net::Keywords::「サゲ」のブログ



2008-01-22[n年前へ]

落語に「オチ」がある理由 

 サゲ(オチ)…というものは一種のぶちこわし作業なのです。さまざまのテクニックを使って本当らしく喋り、サゲでどんでん返しをくらわせて「これは嘘ですよ、おどけ話ですよ」という形をとるのが落語なのです。

 三代目 桂米朝「落語と私」
 「落語の言語学」(野村雅昭 平凡社選書)を読み、一番新鮮に感じたのが「落語にはなぜオチがあるのか」という章だった。それまでに語られた話がストンと落ちて、その瞬間「語(かた)り」が実は「騙(かた)り」であることが明らかにされる「オチ(サゲ)」が存在しなければならない理由に、不思議に魅力を感じた。
 「(落語の原名である)落とし噺」は本来おろかものや弱者の話である。おろかな言動や弱者ゆえの行為を、普通の人間が高所からながめることでワライが成立する。だから、そのままで終わったのでは後味が悪い。そこで、それがウソであったというタネアカシが必要となる。

  野村雅昭 「落語の言語学」

2008-01-23[n年前へ]

落語の「人情噺」にオチ(サゲ)がない理由 

 落語の原名である「落とし噺」に「オチ」がある一方、落語の「人情噺」は多くの場合、オチ(サゲ)がない。その理由を「落語の言語学」(野村雅昭 平凡社選書)はこう書く。

 人情噺の終わりでは、(中略)聞き手はほっとする。それが全部作りごとだったとしても、聴衆はそれが事実であることを信じたいのであり、わざわざ種明かしされることを望みをしない。

 NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」が、「立ち切れ線香」に入った。立ち切れ線香は人情噺だけれど、これ以上ないくらい悲しく、複雑であると同時に短く澄んだオチで、日常に戻る。

「わしの好きな唄、何で終いまで弾いてくれんのやろ?」
「もうなんぼ言うたかて、小糸、三味線弾かしません」
「何でやねん?」

「お仏壇の線香が、ちょうど立ち切りました」
 「三味線弾かしません」言葉を、「芸者としてさまざまなものに縛られているから、三味線を(弾きたいけれど)弾けない」と聞いても良いし、日本語の「可能・受身・自発」は繋がっていて、決して分けることができない同一のものだ、とする聞き方もあるだろう。「線香が、立ち切りました」と繋がるというオチ、その関西弁を眺め直してみても、また深く感じることができる。たくさんの混じり合っているものを、味わいのもよい。



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