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2010-05-07[n年前へ]

上岡龍太郎の「理」と「情」 

探偵ナイトスクープ」から。

 関西には、「探偵ナイトスクープ」という人気番組がある。(中略)'93年2月のある週の放送だった。事情があって道端に放置されている二宮尊徳の銅像があるのだが、それをきちんととしたところに再び置かれるようにしてもらいたい、との依頼が番組に送られてきたのである。
学校をいくつか回るのだが、どの学校にも断られる。トミーズ雅が不思議に思い、ある学校の校長に尋ねたところ、二宮尊徳は、「お国のため」というような思想が強制された戦前・戦時中の教育のシンボルであり、そのような悪用・悪影響の心配があるので、学校で引き取ることは出来ないのだ、と説明される。
 結局、どの学校にも断られるのだが、大阪市内のある保育園が引き取ってくれることになる。じつはこの保育園には、すでに一体の二宮尊徳像があったのだが、もう一体置くということにしたわけだ。依頼者のおばあさんも大変喜び、これで一応番組的には「一見落着」という感じなのだが、ところがスタジオの場面に切り替わると、上岡局長が、「探偵」の行動に苦言を呈する。
なぜ学校などの教育施設に置くことにこだわったのか。放置されて路傍に置かれているときでも、すでに賽銭のようなものが供えられていたという。それなら、商店街とか、個人の庭に置いてもらうという方法もあり、そうすれば、ずっとスムーズにいったのではないか。
 上岡は、おそらく彼個人の考えと感覚にもとづいて、この番組の作られる方針、そして視聴者に訴えたであろう「情」の部分に疑いを示し、彼一流の口調で切り捨てたのである。
 自分が信じる「理」にしたがって、テレビ的に作られる「情」を拒み断罪する。上岡龍太郎は、それが出来る芸人だった。おそらく上岡は、あの学校長の形式的な態度などは、もっとも嫌った人であろうが、そのことと、彼自身の考えや感覚にもとづいて何を信じるかということ、またテレビが強いてくる(大衆的と称されるような)「情」への安易な協力・同調を拒むこととは、また別のことがらだった、ということだろう。



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