2003-12-09[n年前へ]
■愚者の楽園 
「…すごいけれど、弱い私にはかなりキツイことです」と書く、あるプライベート日記。弱者はなかなか強者にはなれないし、強者は弱者をほとんど例外無しに理解し得ない。それは、弱者が正しいとか強者が間違っているなんていう話では決してなくて、単に「弱者はなかなか強者にはなれないし、強者は-弱者が弱者たる所以-をなかなか理解し得ない」というただそれだけの話だと思います。
で、弱者は強者にはなかなかなれなくて、強者は弱者を理解し得ないのであるならば、「弱者と強者がタッグを組んだならば」それはさぞかし強いチームになれるのではないかな、と思ったりします。弱者の視点と強者の視線を兼ね備える「立体感」のある視線・力を持つチームになるのかも、と思ったりします。
と、書く今回のタイトルはもちろん川原泉の「美貌の果実」に収録の「愚者の楽園」のパクリです。「人はいかにも愚かではありますが…」という「愚者の楽園」のパクリです。
2004-01-24[n年前へ]
2004-01-25[n年前へ]
■カッコがつかない…?いやきっとつく。 
『「強弱」の定義って、ナニ?』というツッコミをされた方の名前に、ふと必然を感じたので書いてみようと思います。
前に
弱者はなかなか強者にはなれないし、強者は弱者をほとんど例外無しに理解し得ない。と書きました。昔の文章を書き直すのもどうかと思うので、書き直しはしませんけれど、
「弱者」はなかなか「強者」にはなれないし、「強者」は「弱者」をほとんど例外無しに理解し得ない。と書き直しておけば良かったかな、とは思っています。「カッコ」を付けておけば良かったな、と思っています。文章で書くなら、…チョーさん風に言えば、「いわゆるひとつの」という感じです。「いわゆるひとつの」強者、「いわゆるひとつの」弱者という感じでしょうか。いくつもある言葉の意味の中の一つ、という感じかもしれません。あるいは、それだけでなくて、もっとシニカルな意味が入っているのかもしれません。
例えば、-アメリカという「正義の味方」-というニュアンスや、-あなたは誰にでも「いい人」でいたがるのね-とか、そんな感じかもしれません。その「正義の味方」や「いい人」というのは、本当に正義だったり良かったりするかどうかはちょっと疑問、ていうニュアンスがありますよね。そんな感じかもしれません。 …「かもしれません」なんて書いていると言うことは、つまりは書いてみたけれど、私自身よくわからないわけです。
結城さんのインタビューの中で、「強い人」「弱い人」とカッコ付きなのが、そんなニュアンスで書かれたのかどうかは判りません。編集者の方がつけたのかもしれませんし、あるいは結城さんが特にそういう意図でなく、カッコをつけてみただけかもしれません。ただ、そのインタビューを読んで、あぁやっぱりその「強い人」「弱い人」にはカッコがついているなぁと私は思ったのでした。

もちろん、気になされている定義というのは「カッコのつかない」ものに対する定義なのでしょう。ところが、実のところ、私は「カッコがつかない強い人」というものをその言葉の意味も含めてよく想像することができません。意味すら想像できないのですから、そんな人が実在するのかどうかなんて、全然わかりません。もしも、そんな強い人というものが実在するのなら、それは「人じゃない」んじゃないか、とすら思ってみたりします。つまり、もしも「カッコをつけなければ」人は全て弱いと思っているわけです。そして、それとは逆に「強い人」というのは、もしかしたら「自分にカッコをつけてしまっている」のかもしれない、とも思うわけです。
2004-01-26[n年前へ]
■誰の中にだって佐吉はいるんだから 
マツモトさんの「強い人」とか「弱い人」とかを読みながら、こんな文章を思い出す。
(自殺した山田花子の)親父さんと話している最中、突然「藤吉-佐吉問題」というものが浮かび上がってきた。藤吉も佐吉も根本敬マンガの根本的キャラクターで、この世界は、小心で善人でいつも他人からいじめられる「藤吉」と、強烈なアッパー系でいつも自分のエゴに他人を巻き込みいい思いをする「佐吉」によって成り立っている。「どうも由美(山田花子)は藤吉は自分であると同時に、根本さんも藤吉である、と思いこんでいたフシがあるんですよ」
この話を根本敬にすると、「はーん、すると俺の中に吉田佐吉が見えて来ちゃって失望したと…。だけどね、山田花子の中にだって佐吉はいるんだから」という答えだった。
「消えたマンガ家」 大泉実成
2005-06-14[n年前へ]
■「リアリズムとファンタジー」 
週刊SPAに連載されている、鴻上尚史のドン・キホーテのピアスを読みました。
いい作品は、人生に対するリアリズムとファンタジーが同居しています。リアリズムだけでは苦しすぎるし、ファンタジーだけでは納得できないのです。 リアリズムは「人生をちゃんと負けた人間が感じるリアリズム」です。ファンタジーは「人生、やがて勝つという根拠ない確信に満ちたファンタジー」です。 この二つを同時に持つというのは、それは難しいものです。この後は、「けれど、これからはリアリズムとファンタジーを選び、自分なりに同居させる必要がある。それがいい人生にするコツかも」と書かれています。


実のところ、私は「カッコがつかない強い人」というものをその言葉の意味も含めてよく想像することができません。意味すら想像できないのですから、そんな人が実在するのかどうかなんて、全然わかりません。もしも、そんな強い人というものが実在するのなら、それは「人じゃない」んじゃないか、とすら思ってみたりします。 つまり、もしも「カッコをつけなければ」人は全て弱いと思っているわけです。そして、それとは逆に「強い人」というのは、もしかしたら「自分にカッコをつけてしまっている」のかもしれない、とも思うわけです。

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