hirax.net::Keywords::「進化」のブログ



2008-02-11[n年前へ]

「ギャラリーフェイク」と「コピー」 

 美術の歴史を知ると面白く感じる。そして、ミステリー=謎解きも好きだ、と感じる人がきっと好きになるマンガが「ギャラリーフェイク」だ。時には、「カルマン渦」や経済学者でもあったマンデルブローの"株価変動予測"フラクタルを考える「連立不当方程式」といった理系心をくすぐる話も詰まっている(13巻目第2話)、そんなマンガだ。

 「フェイク」つまり、「偽造した絵画」を題材にしたマンガ「ギャラリーフェイク」を読むとき、いつも思い出すのが「コピーの時代」という美術展だ。『現代の私たちの日常生活には多種多様な「コピー」が満ち溢れています』という言葉で幕が開く美術展を見たとき、感じたのは「コピー」が持つ劣化性だ。そして、「コピー」が持つ「進化能力」言い換えれば「可能性」だ。

 時に、自分が何かの「コピー」になってしまいそうに感じる瞬間がある。影響を受けたものをただなぞるだけ、になってしまいそうになる。しかも、幸か不幸か「テキストをなぞるのが不得手」なせいか、劣化コピーになってしまうことが多い。

 …これは困ったものだと感じながら、そんな時は、小器用なコピーでは、無限縮小コピーになってしまいそうだから、「とても質の悪いコピー」は「一種の進化だ」と眺めなおそう、と思ったりもする。小器用な縮小コピーを続けていたら、原始生物も人類も生まれなかったかもしれないし。

2009-12-02[n年前へ]

進化しているように見えるのは、枝葉の部分が多い。 

 どこで読んだのかは忘れてしまったが、数年前に手帳にメモした糸井重里の言葉から。

 進化しているように見えるのは、枝葉の部分が多い。根や幹の部分は、昔の人たちから学ぶことばかりだ。

2010-10-04[n年前へ]

ひとつだけでなく、複数のものを知るということ 

 鴻上尚史 「ドン・キホーテのピアス (13) どうしてニッポンはこんなに便利で息苦しいのか? 」の中にある「電波少年」の土屋敏男の言葉から。

 「師匠を2人持つっていうのがいいと思う。一人しか持たないと、師匠のミニにしかならないからね。二人持つと、ミックスされて、自分独自のものが出来上がるから」

 この「師匠」という言葉は、さまざまな言葉に入れ替えることができるような気がします。それはたとえば、「文化」なんていう言葉に入れ替えて良いし、「考え方」とか「やり方」といったものに入れ替えても良いようにも思います。あるいは、「○×系」でも「グループ」でも「価値観」でも、ありとあらゆることを意味する言葉をあてはめてみると、何か新しいものを見ることができて、面白いようにも感じられます。

 ひとつのものしか知らない時、ひとつのものしか見る機会がない時には、体の中で警鐘を鳴らし、複数のものに接するようにすることが大事なのかもしれません。

 さて、下に、「師匠がしていること」を、自分がしようとすると、さて何ができるか、ということを描いてみました。人はそれぞれできることが違いますし、「師匠がしていること」を”ただ”なぞろうとしても、それは”劣化”コピーにしかならないように思います。

 ふと、こんなことを考えます。”劣化”コピーなのか、それとも、意味あるコピーなのかは、その瞬間にはわからないものです。人は完全でないコピーをし続けることで進化し、そして、今の世界があります。それでも、「ひとつだけでなく、複数のものを知る」ことで、どんな意味を持つかということを、少し長い時間軸に沿って眺めることができるのかもしれません。

ひとつだけでなく、複数のものを知るということ






2011-07-16[n年前へ]

「道具」と「”できる”という可能性」 

 まだ涼しい夏の朝早くに自転車に乗って、横浜を通り鎌倉を過ぎ、熱海に行きました。電車や車に乗って行くのが普通と思いこんでいた場所に、近くのコンビニに行くのと同じように、自転車に乗って辿り着くことが”できる”というのは、とてもワクワク・気持ち良くします。

 真鶴から岸壁の下の海を見下ろしながら、熱海から伊豆半島を眺めながら、「このワクワクする感じは、何か知っているものと似ているような気がする」「それは一体何だったろう?」とずっと考えていました。

 「そうだ!”できる”ということにワクワクしているんだ」「”できる”という可能性・”できた”という結果にワクワクしているんだ!」と、熱海ビールを飲み・熱海で温泉に浸かりながら思いつきました。もしも、アルキメデスだったとしたら、「ユーレカ!(わかったぞ!)」と叫び・全裸で熱海の海に走り出したかもしれません。もちろん、その場合には、熱海駅前にある静岡県警の交番に連行されること間違いなしです。

 コンピュータを買って、プログラミングをした時もそんなワクワクを感じました。SF小説やジュブナイル小説の中で読んだ未来の可能性を「自分で実現”できる”」という衝撃的なワクワクは今でも覚えています。そんな新鮮な楽しさは、ずっと変わらず続いているような気がします。

 もっと軽い自転車を買ったり・部品を交換したくなります。そうすれば、もっと遠くへ・いつでも行けるような気がします。…そんなことを太平洋の海と波を眺めつつ考えていると、「あっ、これもPC買いたい病と同じだ!」と気づきました。それは、新しいパソコンを買うと、何か新しいことが”できる”ような気がして、巨大な物欲のビッグウェーブが襲ってくるという病気です。あるいは、新しい楽器を買えば、今はできない演奏を(いつの間にか)することができるようになる、と思いこむ病気です。

 「いかん、いかん…」「道具に頼るより、まずは自分の力をつけなくちゃいけないな」と消費の欲望を振り払いながら、ふとこんなことも考えます。新しいモノを買い、そのワクワク感が、何か新しい”思いつき”や”可能性”を産むこともあるのではないか、と想像します。道具は何かを達成するための道具に過ぎない…けれど、その道具が私たちの衝動や欲望を突き動かし、新たな可能性へと誘(いざな)っていたりいたりもするのではないか、と思います。

 道具は道具に過ぎないと同時に、道具こそが欲望という魔術を操りヒトを猿から人間へと変え・未来への変化を続けさせている黒幕なのかもしれません。

「道具」と「”できる”という可能性」






2014-02-04[n年前へ]

「人の視覚」と「生物の進化」 

 古代、光の4波長帯を識別する目があったのに、哺乳類が夜行性として生きてきたがゆえに(いつの間にか)緑と青の視覚を無くし、けれどヒトは、赤センサの一部が緑に変異したことで、赤と緑を識別することができるようになった…(それは森の中で赤い果樹を見分けられるから?)という話とか。…こういった話を読んで、ようやく人類の色覚の個体差について、少し納得することができたような気がする。



■Powered by yagm.net