hirax.net::Keywords::宗教のブログ

  

2006-08-08[n年前へ]

「信じることと問いかけることの違い」

 いつものように週間SPA!を買い、鴻上尚史の「ドン・キホーテのピアス」を読む。一人暮らしの女性が少ないことに鴻上尚史が驚いたところから始まり、カルト宗教などまで。

 信仰が人を育てるのは、信仰が「信じること」ではなく「問いかけること」だからです。神の言葉を伝える人はいても、神そのものが語らないから、人は「問いかけ」るしかなく、そこで思索的になり反省し思慮深くなるのです。 簡単に結論のでないやっかいな問題を、神の一言で片付けることは、思考し、反省し、成熟するきっかけを手放すことです。 「問いかける」対象が、簡単に答えを言うようになれば、人間は思考を放棄しバカになるのです。     「今の若者は孤独と不安への耐性がない」

2007-07-06[n年前へ]

物語と市場経済

 現代は大衆民主主義と資本主義と科学技術の時代である。人々は原則平等という権利と引き替えに、細かい差異化過程に巻き込まれ序列化されることを余儀なくされる。 「科学とオカルト」P.7 はじめに
 「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」は科学という積み木と隣り合うオカルトという積み木の姿を描く。そして、それと同時にこの本が描くのは、科学だけでなく資本主義と大衆民主主義という積み木とも隣接するオカルトの姿でもある。

 本屋に置いてある雑誌や駅に置いてあるフリーペーパーを眺めてみれば、たくさんのファッション・スタイルや数限りないグルメスポットが掲載されている。そんなたくさんの選択肢から自分なりのものを選んで自分に振りかけてみても、他人と自分の違いは、スターバックスで注文するコーヒーかホットドッグのトッピング程度の違いしかないことだって多い。

 宗教という大きな公共性も身分制という規範も存在しない現代では、自分が何者なのかということを教えてくれるものは何もない。唯一、最大の公共性であり科学は、そういう問いには原理的に答えることができない。「科学とオカルト」P.148 現代オカルトは科学の鏡である
 元サッカー日本代表の中田英寿は「自分探しの旅」へと出かけてしまい、須藤元気は格闘技のリングから「スピリチュアルな世界」へと舞台を変えた。「僕って何」という問いかけをする「一見さんに対し」、ほとんど全てのものが明確な答えを与えることはしないように、科学が一見さんが抱えるその問いに答えることはない。

 お客様は神様です。  三波春夫
 「お客様は神様です」という言葉とともに、スーパーにはたくさんのものが並び、私たちは自分が持っているお金の範囲で自由に商品を選ぶことができる。現代社会は、お金を持っている限り有効の神様チケットを持った人で満ちあふれている。それと同時に、そんな神様たちは「選択」という価格の付けられたチケットを持ってはいるけれども、選択に迷いがちで自分を見つけられない存在でもある。
 幸か不幸か、社会はこの現実社会にはないものを物語という形で流布する。「かけがえのない私」というのも、こういった物語の一つである。「科学とオカルト」P.149 現代オカルトは科学の鏡である
 消費者が望むものを誰かが生産する。需要のあるところには、必ず供給が生まれる。科学が生産できないものを現代の消費者が望むなら、そこには、必ず別の供給者が現れる。それが自由市場主義で動く現代社会なのだろう。消費者という神様は欲しいものに応じ、時には科学を選び、時にオカルトを選ぶのである。お客様という神様たちと、そんな神様たちの欲望に応える供給者が作り出していくのが、21世紀の世界なのだろうか。
(「科学とオカルト」を書いた)池田の著書は、自分で考えるとはどういうことか、結局はそれを教えてくれる本なのである。  養老孟司
 

2007-12-28[n年前へ]

和尚さんとWEBショップ

 スラッシュドットの「後継難に悩む寺を救う? 全自動鐘つき機が普及中」 という記事中で紹介されていた寺院商品専門WEBショップの広告が面白い。特に、趣味・便利用品が素晴らしい。アルコール検知器ソシアック・賽銭用警報機・頭のアブラを取れる大判あぶらとり紙…、世相を反映した商品の数々が並んでいるのを見ると、袈裟を着る和尚さんたちを身近に感じてしまう。和尚さんたちが、こんなWEBショップのボタンを押し、カートに商品を追加したりしていると思うと、それだけで何だかとても楽しくなる。

2008-01-03[n年前へ]

「バベル」

 映画「バベル」は、田舎町にある映画館のレイトショーで観た。142分の上映時間がとても短く感じると同時に、坂本龍一の音楽を聞きながら、数え切れないたくさんのことを考えさせられた。伝え合えない"Discommunication"な世界を観ながら、言葉にならないことを感じた。

I just did something stupid.

 同じ世界、少しづつ重なり合う世界で生きているのに、小さなことが大きなズレとなり、そのズレがただひたすらに広がっていく「無常に流れる時間」を描いた映画「バベル」の背後にそびえているのは「バベルの塔」だ。スクリーンに姿を現すわけではないけれど、バベルの塔がいつもスクリーンの向こうに見えている。

Do you want something to eat?

 バベルの塔というと、16世紀のフランドル(今のオランダ・ベルギー・フランスの一部)の画家 ピーテル・ブリューゲルが描いたバベルの塔が有名だ。9月11日にテレビ画面に映った映像は、まさにブリューゲルが描くバベルの塔の一枚に描かれた景色のようだった。そんな、世界の大きなできごと、あるいは、身の回りの小さなできごと、どんなサイズのできごとも、こんな「バベル」なことで満ちている。そんな伝わらない言葉がばかりが溢れてる。

初めに言葉があった。 万物は言葉によって成った。 言葉によらずに成ったものはひとつもなかった。

2008-01-04[n年前へ]

「バベルの塔」と「宗教改革」

 バベルの塔を描いたピーテル・ブリューゲルがネーデルランドに生まれた1525年は、ルターがドイツで宗教革命を始めた7年後だ。ネーデルランドでは新教のカルヴァン派が広まり、ついには旧教国スペインからの弾圧を受ける。そして、ネーデルラントの新教勢力は、旧教の支配から脱するためにオランダ独立戦争を起こす。それが、ブリューゲルが死ぬ一年前だ。そして、その結果ネーデルランドは南北に分裂し、現在に至る。

 そんなことが始まった時代、宗教戦争で一つの地方が二つに分かれていく時代にブリューゲルは生きていた。そんな時代を想像しながら、互いに言葉を交すことができなくなり、人々が離れ離れになっていくさまを描いた「バベルの塔」の絵を眺めると、やはり色々考えてしまう。

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