hirax.net::Keywords::「経験」のブログ



2009-06-18[n年前へ]

男の人に多い、頭が図書館の人。 

 「ユリイカ2006年7月号 特集*西原理恵子 」での みうらじゅん と 西原理恵子 の対談から。

西原理恵子:男の人に多い、頭が図書館の人。ものすごい知識があって、何を言ってもその歴史なんかを知っていて魅力的なんだけど、経験則がないからすぐにバレちゃう。辞書の中で知っているジェノサイドや残酷な歴史を紐解いてもらっても困る。実際にその場で血や膿や銃弾の匂いを嗅いでいないと、聞いていてちっとも面白くない。中学や高校の教師の授業とまるで同じ話になってしまう。

2009-11-01[n年前へ]

無駄に終わる経験など何一つない 

 万城目学のエッセイ集「ザ・万歩計 」から。

 小さなことからコツコツと。とはご存知西川きよしの名言であるが、まあ、世の中とは得てしてそういうものだなあ、と近頃ようやく思えるようになった。どんなことも積み重ねが大事であり、無駄に終わる経験など何一つないのだ、と近頃ようやくわかるようになった。
 それは万歩計の目盛りを一つずつ増やす作業にどこか似ている。少し歩いたくらいじゃ、確かに何の意味もないのかもしれない。だが、目盛りの数字が(後略)

2009-11-03[n年前へ]

「経験」を持たない「賢者」 

 ふと目にした言葉、衝撃を受けた言葉や、気になった言葉を、システム手帳にいつも書き写し、時間がある時にはいつも読みなおしている。…その一部をここに書くことが多い。

 その中で、「腑に落ちないけれど、書き写した」というものもある。たとえば、次にひく勝間和代の言葉もそうだ。これは、朝日新聞の2009/05/09に掲載されていた「人生を変えるコトバ」に書いてあった言葉だ。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。
書き写して読み直すのだけれど、どうにも消化できず、この言葉が胃もたれしたままでいる。

 ここで書かれる「賢者」は、数多くの否応なしに学ばさるを得なかった「経験」を自らのものとしては持たなかったのだろうか。あるいは、ここで「愚者」と呼ばれる者は、本屋で歴史書を手にすることはないのだろうか。

 「腑に落ちない胃もたれしたままの言葉」を書いたのは、この言葉だけだ。どうにも、この言葉の深さというものを計ることができず、書き写した頁を眺めるたびに、いつも悩んでしまう。

 ・・・だから、というわけではないが、今日張り付けたイメージ画像は同じ「愚者」でも、勝間和代の本ではない。「指が月をさすとき、愚者は指を見る―世界の名科白50 」である。

本当に重要なことは、あるものが何であるかよりも、誰がそれをいっているのかを知ることなのです。

四方田犬彦

2010-04-10[n年前へ]

何気ない一言で、自分の経験と世界観は見えてしまう 

 角田光代の「恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。 」から。

 人が何かを語っているとき、それがどんなに真実っぽく聴こえたとしても、それはデータでしかない、ということだ。それがその人の経験なのだし、世界観なのだ。何気なく言った言葉で、自分のデータの質と量がばれてしまうことになる。

2011-05-01[n年前へ]

「客観的な事実」と「自らの狭い主観」との違い 

 新多昭二「日本陸軍の殺人光線開発計画」から。

 ビスマルクは、『賢者は歴史から学び、愚者は経験からしか学ばない』、といってるが、客観的な巾広い事実と、自らの狭い体験のみから得た主観との違いを戒めているという点で、けだし名言といえるな。
 理性と感性の差かも知れない。同じ戦争体験でも、理性的判断を基礎にした客観的事実を遺せば、後年貴重な歴史の語り部になるし、単なる感情の吐露に終われば、せまい個人体験に終わってしまうからね。

 ラヂオという言葉が好きで、科学技術が好きで、そして過去や現在から未来へ続く可能性が好きなあなたなら、「広島生まれ・京都帝国大学工学部・戦時科学研究養成機関卒業。陸軍登戸研究所勤務後、京都帝大工学部電気工学教室勤務。…」という新多昭二が書いた「秘話 陸軍登戸研究所の青春 (講談社文庫)」を一度手にとれば、文庫本サイズに凝縮された「知恵と笑いの預言書」に絶対ハマること間違いありません。

 帝銀事件で世に知られることになった陸軍登戸研究所のことだけでなく、明治幕末からパロアルトの情報工学まで、なんて濃い人生があるのだろうと驚かされます。

 「賢者愚に学び、愚者賢に学ばず」ということわざがあるが、どこをどう探し回っても、高慢な賢者や謙虚な愚者にはお目にかからない。愚かさは高慢と同居しているのが常である。

秘話 陸軍登戸研究所の青春」 おわりに

 「賢者は歴史から学び、愚者は経験からしか学ばない」かつ「賢者愚に学び、愚者賢に学ばず」のであれば、…もしかしたら「愚であり賢である事実」が「歴史」と呼ばれるものなのかもしれません。



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