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2011-04-23[n年前へ]

「黒体放射」する「自転車に乗る女子高生のお尻」 

 高校生の頃、女子高生の「制服」に心の底から憧れていました。通っていた学校は共学だったのですが、自由気ままな服を着ることができる私服の学校だったこともあり、「人(ヒト)は自分が持たないものに憧れ・好きになる」という世界の原理原則にもとづいて、それが「ブレザー」でも「セーラー服」でも「それが制服でありさえすれば、素晴らしい」という制服マンセーな太く固い背骨を得て、さらに「制服という型を守り抜く心」にこだわる精神構造を得るまでに至ったわけです。

 たとえば、建築で言えば、鉄骨建築が理系で、プレハブ住宅が文系なのである。プレハブ住宅を支えるのが壁であるように、皮膚の感覚を大事にするのが文系で、力強くそそり立つ鉄筋コンクリートのごとく、骨から組み立てていくのが理系なのである。つまり理系は骨があるのである。詩で言えば、散文詩は文系で定型詩が理系なのである。つまり、理系は型を守り抜く心を持つのである。
 だから、たとえば、理系は女子高生の制服が大好きなのである。ありとあゆる個性を持つ女子高生たちをセーラー服(あるいはブレザー)という記号で記号・集合論的に取り扱うことを可能にし、ついにはその制服を見るだけで萌えることができる、それが理系なのである。

めがねっこ大好き。

 そんなわけで「女子高生の制服こそが世界の至宝の存在だ!」と信じていたわけですが、そんな風に思いつつも、ひとつだけ「これさえなければ…」と感じることがありました。その「女子高生の制服」のここさえなければ…と感じていた部分というのは、自転車通学をする女子高生は、例外なく、制服のお尻部分が実にグロッシーにテカっていたことでした。黒い色の制服が好きだったこともあって、その黒い制服に白く輝くテカリを持つことに違和感を持っていたのです。

 制服のは粗い繊維でできています。そんな制服に光があてられたとき80パーセント程度の光は繊維内部に入り・そして繊維の中で吸収され、やがて熱エネルギーに変わります。残りの20パーセント程度の光は、スカートの繊維表面で反射し四方八方に散っていきます。四方八方に散る…ということは、どこかひとつの方向に反射するわけではありません。つまり、スカートがテカって見えるということはないわけです。

 ところが、毎日自転車のペダルを漕いでいる女子高生たちの制服は、サドルとお尻で擂(す)り潰(つぶ)されて、繊維表面が真っ平らに変形していきます。表面が凸凹とした繊維からの反射光は強くありませんが(テカりませんが)、表面が平らに潰された繊維からの反射光は強く・そんな制服を育てた「女子高生のお尻」はテカり輝いてしまうのです。

 自転通学する女子高生たちは、見るからに輝いています。そして、そのお尻もまた輝いているのです。その黒い制服が輝くようすを、極めてわかりにくく表現するならば、それはエネルギーを反映して光り輝く黒体放射にも思えます。

 ところで、女子高生の制服(スカート)は、最初から光沢仕上げの繊維で作った方が良いのかもしれない、と妄想します。最初から光沢を持っている繊維ならば、表面がもとから平滑な繊維ならば、毎日自転車に乗っていてもお尻が黒体放射してしまうこともない…と思う一方で、全身テカリまくりの制服は絶対ダメだ〜とも考えたりするのです。ということは、「自転車に乗る女子高生のお尻」は未来永劫「黒体放射」し続ける…それはそれでいいのかも、しれません。

「黒体放射」する「自転車に乗る女子高生のお尻」「黒体放射」する「自転車に乗る女子高生のお尻」






2011-05-21[n年前へ]

面白い企画が詰まった「恋と童貞 2号」 

 再開された六角橋商店街の闇市に遊びに行ってみると、手作り感満載のミニコミ誌を並べ売っている人たちがいました。そこで何冊か買った内の一冊が、その名も「恋と童貞 2号」というもので、たとえば、自分の中の理想の乙女像を互いにプレゼンし合う(そしてツッコミあう)「超バトルロイヤル 俺の乙女選手権」や、夢の座談会「決戦!! 我らが夢の おっぱいVSおしり」、あるいは、ヘテロやホモや色んな相互関係を数式モデル化し議論する論文「童貞喪失機会問題に関する試論」といった話が詰まっていて、とても楽しめる一冊でした。

 「童貞喪失機会問題に関する試論」の内容を私の解釈で書いてみると、「(人の)魅力」が次のような式で書けるとして、

「魅力」=「伝達力」×「出会う人の数」+「見た目・財力など」

その「伝達力」を「本人が決めるもの」「周囲が決めるもの」という2種に分けてみれば、それらの値域次第で「童貞喪失機会」の確率が決まることがわかる(かもしれない)、というものでした。

 「…このモデルのこの部分には改良の余地がある」といったことを感じたりもするのですが、そんなことを読者たちが考え出し始めてしまうこと自体が、「恋と童貞」の作り手たちの狙いなのかもしれません。

 「俺の乙女選手権」「おっぱいVSおしり決戦!!」…読み進むうちに私たちの中にある深層心理も考えさせられたりして…「恋と童貞 2号」面白いです。

童貞喪失機会問題に関する試論






2014-02-27[n年前へ]

おっぱい好きとお尻好きは邂逅するべきだ!? 

  「女は尻だ。異論は認めない」という言葉を読みました。

 すべては尻であり、尻にある。美しさ、強さ、優しさを兼ね備えた、あらゆる魅力と本質の表象であり、かつ全人類の故郷であり桃源郷であり、世界でいちばん穏やかで不滅で争いのない場所である。君に、おっぱい山頂への征服欲があることは理解できる。だが、そこは四足から二足へ移行する際、成熟のバロメーターとして採用された代替品だ。
 で、(この文中にも示唆してありますが)「人類女性の胸が(授乳を行わない時期であっても)常時大きい理由は、直立二足歩行のせいでお尻が見えづらくなり、直立二足歩行で見えやすくなった胸の部分が”擬態として”お尻のような見かけで大きくなった”」という説を思い出しました。それが真実であるかどうかはさておき、右の画像を眺めると、お尻も胸の谷間もほぼ同じ「見え方」に思えます。

 つまりは、その説に従えば、お尻好きだという人も、おっぱい好きだという人も、つまりは全く同じ本能で動く同類だというわけです。おっぱい好きとお尻好きは邂逅するべきなのかも…。



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