hirax.net::Keywords::「ハリウッド」のブログ



2000-09-29[n年前へ]

恋は稲妻のように 

恋のパッション方程式


 暑かった夏も終わり、もうすっかり秋になった。秋になったせいなのか、それとも他の理由なのかは判らないけれど、胸の辺りが何故かチクチクと痛む。それどころか指の先までチクチクするような気がする。

 胸の痛みの方は何故だか判らないけれど、指先のチクチクの理由は判っている。静電気のせいだ。指先から放電して火花がバチバチと散るのである。私が普段着ている服のせいか、それとも私のサンダルと職場の床の相性が悪いのか、私の体には静電気が貯まりまくってしまい、とにかく指先から火花が散ってチクチク痛くなるのである。胸はチクチク、そして指先もチクチクして、もうなんだかイヤになってしまう。
 

 私個人の理由はさておき、世間一般的には「秋の胸のチクチク」と言えば、それはもう「恋」ということになるだろう。物思いに耽る秋には、きっと恋に胸を痛める人も多いことと思う。「秋は食欲の秋に決まってるじゃないの、秋に痛むのは胸じゃなくて胃だよ」と言うような「花よりダンゴ状態の人」も世の中には多いのかもしれないが、少なくとも「秋は恋の季節かな」と言う人も結構いるハズである。
 

 そこで、今回は私の指先でチクチクする「静電気の火花 = 放電」になぞらえながら、「恋」について考えを巡らせてみたい、と思う。「って、何でいきなり放電= 恋やねん!」とツッコミを入れないで欲しい。何故なら、かのアンソニー・ホプキンスも「MEETJOE BLACK」の中で「恋は稲妻に打たれるようなものだ。」と言っているのだ。「恋は稲妻→放電」はハリウッドのお墨付きの事実なのである。日本の誇るザ・ピーナッツにも「恋の稲妻」という曲がある位だから、これはもう確実度120%と言って良い位だろう。
 

 さて、体に静電気が貯まったからと言って、すぐに私の指先から稲妻が飛びまくるわけでは決してない。そこには、「ある程度以上の静電気が貯まらないと稲妻が発生しませんよ」という法則がある。それが、パッシェンの法則と呼ばれる法則である。例えば、パッシェンの法則による標準的な空気中での「放電する領域」と「放電しない領域」を示してみよう。
 

パッシェンの法則による標準的な空気中での「放電する領域」と「放電しない領域」

 例えば、このグラフ中の横軸で200μmのところを見ると、1500Vより小さな電位差までは「放電しない領域」となっている。稲妻を飛ばすにはまだ電位差が足りないわけだ。しかし、電位差が1500Vを越える辺りからは、「放電する領域」に入っていることが判るだろう。つまり、ここまでくれば「稲妻」を飛ばすのに十分な電気エネルギーがある、ということになるわけだ。「稲妻」を飛ばすにはエネルギーが必要なのである。
 

 さて、それでは「恋」の場合はどうだろうか?「恋の稲妻」を飛ばすにはやはり何らかのエネルギーが必要なのだろうか?そしてまた、「電気の稲妻」におけるパッシェンの法則と同じようなものが「恋の稲妻」においても存在しているのだろうか?

 実は「恋の稲妻」においても同じような法則が存在しているのである。私が「恋のパッションの法則」と呼ぶ法則がそうである。「恋の稲妻」を飛ばすに十分なパッション(= 愛情,恋慕,色情,情欲,欲情)がどの程度であるか、を示すのが「恋のパッションの法則」なのである。これは、「恋の稲妻」を飛ばすには「恋のパッション」のエネルギーが必要であって、「これくらいのパッションがあれば恋の稲妻を飛ばせますよ」ということを説明したものなのである。

 試しにこの「恋のパッションの法則」による「恋の稲妻」とそうでない領域の一例を次に示してみよう。(実はこの「恋のパッションの法則」は縦軸・横軸(すなわち、距離とパッション=Love-Power)共に任意単位なのであるが、ここでは適当にkmとVという単位で示してみた。)
 

「恋のパッションの法則」による「恋の稲妻」とそうでない領域

 この図を見てみると、距離で10km位のところで「恋の稲妻」を飛ばすのが一番楽だということが判る。10km位の距離にいるような男女の場合、400ラブパワーもあれば「恋の稲妻」を飛ばし合うことができる。お手軽「恋の稲妻」コースである。

 しかし、男女の距離が増えたりすると、「恋の稲妻」をおこすためにはかなりのラブパワーが必要とされることが判る。例えば、500km位離れてしまうと、「恋の稲妻」を発生させるには3000ラブパワーくらいが必要とされるのである。つまり、東京と大阪ですくすくと育った男女が「恋の稲妻」を発生させるのは結構大変だ、ということがこの「恋のパッションの法則」から判るわけだ。

 そして、もうひとつ面白いことがある。この「恋のパッションの法則」の図を見てみると、近距離で「恋の稲妻」カーブが急に上昇していることがわかるだろう。その近距離の辺りを拡大してみると次の図のような感じになる。
 

「恋のパッションの法則」による「恋の稲妻」とそうでない領域 (近距離)

 男女の距離が5kmより小さくなるととたんに「恋の稲妻」に必要なラブパワーが大きくなっていることが判るだろうか?男女の距離があまりに近いと、何故か「恋の稲妻」はなかなか飛ばないのである。「恋」に落ちるためには少し距離が必要なのか、それとも、「恋」には落ちるけれども近すぎるせいで人目を気にして「恋の稲妻」を飛ばすことができないのか…色々理由は考えられるだろうが、とりあえず「恋のパッションの法則」は距離が小さすぎると「恋の稲妻」に必要なラブパワーが大きくなる、と言うのである。

 よく、マンガのありがちなシチュエーションで、「一つ屋根の下で暮らす男女や、お隣さん同士の男女の間のなかなか進まないラブコメディ」というようなものが多いが、それは単に男女間の距離が小さすぎたせいなのである。あれらのマンガは実はこの「恋のパッションの法則」に裏付けられた科学的な事実を淡々と描いた科学マンガだったのである(あと、ハリウッドとザ・ピーナッツのお墨付き)。確かにアンソニー・ホプキンスの言うとおり、「恋は稲妻に打たれるようなもの」であることがわかるだろう。
 

 さて、今回は「恋の稲妻」を考えるための便利な法則「恋のパッションの法則」を紹介してみた。次回以降では、この「恋のパッションの法則」を使いながら、「恋にまつわるエトセトラ」を考えてみたいと思う。例えば、先程「東京と大阪ですくすくと育った男女が「恋の稲妻」を発生させるのは結構大変だ」と書いたが、東京で生活している二人が遠く離れてしまう場合もそおうかというと実は違う。そこには結構面白い現象が生じる。題して「恋の稲妻」遠く離れる二人編 とか、「ガンコな人は実は恋の稲妻を飛ばしやすい」という、「恋の稲妻」ホントのオレ編とか、そんなことは次回以降で考えてみることにしたいと思う。
 

2005-01-08[n年前へ]

BACK TO THE 80's 

groovy diaryThe Commodore 8-bit WWW server コマーシャルで見かけたBACK TO THE 80'sを買う。2枚のCCDと1枚のDVDで、懐かしい80年代の32曲のビデオ・クリップと音楽が蘇る。クイーン、カルチャークラブ、ポリス、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド…、あの頃の懐かしい音楽と映像が入ってる。バグルスの「ラジオスターの悲劇(こちらはパロディ版)」もしっかり入ってるのもうれしい。Comodore 64で作られたオープニングで始まったミュージック・トマト・ジャパンやベスト・ヒットUSAを観ていた人は、必見かもしれません。

2008-06-30[n年前へ]

「競馬」と「資本主義」 

 「何か」を表すためにスポーツを「たとえ」に使うことは多い。現在の「資本主義」をスポーツで例えるならば、それは「競馬」だと思う。「経済」に関する知識が(悲しいくらい)乏しい私の頭の中では、「競馬」は「現代の資本主義」とよく似ているように思う。

 競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ。
マーク・トウェーン

 AERA Mook Special 「21世紀を読む」の中で、岩井克人が「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」というようなことを書いていた。これは、マーク・トウェーンが”競馬”について語った「競馬を成り立たせているのは意見の違いだ」という言葉とよく似ている。”違い・差”があって初めて、現在(現実)の資本主義を回すエネルギーは生まれるのだ、という風にこの言葉は響く。「理想とズレ(差)がある現実を、理想に合わせていく調整の仕組み」ではなく、「ありとあらゆる意味の”差”を持ち続ける現実から生まれる利益」で世界が動いている、というように「競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ」という言葉、そして岩井克人の言葉、は響く。

 やりたいことと売れるというのは違うね。売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭悪~い奴もわからなきゃいけないってことだぜ。
(西原理恵子との対談で)みうらじゅん ユリイカ 2006.07

 たとえば、「PCを自由自在に使うことができる人」がいたとする。その人が「技術的な面で心地よく理解しあえる人」を周囲に求めようとしたならば、つまり周囲と自分との間の技術的な”違い・差”="境界"を小さくしたいと願うなら、ほとんど多くの場合”利益”を生むことはできないのではないだろうか。「あなたにできること」は「相手もできたりする」のだから、境界がないのだから、そうそう利益が生まれるわけもない。

 けれど、「PCを自由自在に使うことができる人」が、「PCという言葉もよく知らないし、そんな代物を使うこともできない人」たちの中にいるなら、そこから「利益」を生むことは比較的容易にできるように思う。それを言い換えるなら、「技術的な満足」と「大きな利益」はなかなか両立しえない、ということになる。

 どんな選択を選ぶかどうか、つまり「どんな馬券を買うかどうか」「あるいはそんな馬券なんか買わない」といった賭けが積み重なったものが、現在まで続く世界を生み出し・動かしているのかもしれない。選択肢という名の馬券はたくさんあって、どんな方向にに手を伸ばし、どこかに向かって進んでいく、動かず佇み続ける、違いのある場所に行く、あるいは、理解しあえる場所にいく、そんな数々の選択が積み重なってこの世界を作り出しているのかもしれない、と思う。

2008-12-04[n年前へ]

ぼくらはどういう状態にいたいのだろう? 

 Rubyのまつもと氏「エンジニアに安住の地がなくなってきている」と警鐘という記事を読む。

 情報の格差というものがある。それは解消すべきともいわれるが、モノが高いところにあれば、位置エネルギーが発生し、電気を起こしたりすることができる。情報の場合も、上の方やまんなか辺りにいれば、位置の差でエネルギーを取り出せる

まつもとゆきひろ

 この言葉を読むと、以前「競馬」と「資本主義」で書いた、(AERA Mook Special 「21世紀を読む」の中で岩井克人が書いていた)「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は ”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」といった言葉を思い出す。

 ”違い・差”があって初めて、現在(現実)の資本主義を回すエネルギーは生まれているのだと思っている。いや、現在どころか、はるかな昔からそうだったに違いないと信じている。そして、この事実は技術者の志向と実は相反することが多いのではないか、とも思うことがある。

 「PCを自由自在に使うことができる人」がいたとする。その人が「技術的な面で心地よく理解しあえる人」を周囲に求めようとしたならば、つまり周囲と自分との間の技術的な”違い・差”="境界"を小さくしたいと願うなら、多くの場合、”利益”を生むことはできないのではないだろうか。「あなたにできること」は「相手もできたりする」ということは、つまり、境界がないのだから、そうそう利益が生まれるわけもない。

 しかし、「PCを自由自在に使うことができる人」が、「PCという言葉もよく知らないし、そんな代物を使うこともできない人」たちの「間」に立つのなら、そこから「利益」を生むことは比較的容易だろう。

 ということは、「技術的な満足」と「大きな利益」はなかなか両立しえない、ということになる。

「競馬」と「資本主義」

 ぼくらはどういう状態にいたいのだろう?位置エネルギー、ポテンシャルを高めたいのだろうか、それともエネルギー変換効率が良い場所にいたいだろうか。

 やりたいことと売れるというのは違うね。売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭悪~い奴もわからなきゃいけないってことだぜ。

(西原理恵子との対談で)みうらじゅん ユリイカ 2006.07

 「技術的満足」と「大きな利益」は両立するのだろうか。そんなことができるのだろうか。・・・きっと、その答えは自分で探すしかないのだろう。

 そこまでをやりたいの。

西原理恵子@ユリイカ



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