hirax.net::Keywords::「レイアウト」のブログ



2006-05-15[n年前へ]

「おとなの小論文教室。」 

おとなの小論文教室。 私は「ほぼ日刊イトイ新聞」は読んでいない。単独の記事を、他からのリンクで読みに行くことはあるけれど、「ほぼ日刊イトイ新聞」を読みに行くことはない。レイアウトが読みにくい、ただそれだけの、けれど十分な理由があるからだ。レイアウトが読みにくいから読まないだけだから、書籍として読みやすく作り直されたものは、楽しんでいる。もしかしたら、書き手からしたら不十分な出来なのかもしれないが、それでもWEBサイトの読みにくさと比べれば雲泥の差だ。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。 昨日、山田ズーニー著「おとなの小論文教室。」を読んだ。これもまた、「いい」という感想は眺めつつも、WEBページ上では読む気にならず、これまで一度も読まなかったものだ。この本は本当に良かった。けれど、タイトルは、本当に良くない。少なくとも、この本のタイトルは、この本の内容の素晴らしさを表していない。私がこの本の中から読み取ったことは、「自分を見つけ出す」ということだ。

 年齢によらず、「自分という一人称を主語にして、私は〜だ」と言うことができない人、自分が相手にしている若い人たちの中に「自分という一人称」が見えないと感じる人、そんな人は手に取ってみるといいと思う。本屋で手に取って読んでみるか、それができなければ、Amazonで買った方がいいと思う。この本のタイトルや「ほぼ日コラム」というキャッチフレーズだけで手に取る気を無くす人も多いだろうけれど、手に取った方がきっといいと思う。そうすれば、自分や他人を見つけ出し、それらを手に取ることもできるんだろう、と思う。

2007-05-06[n年前へ]

「送籍」と「名前」 

 図書館は5階建てだが、人でにぎわっているのは1階だけだ。少し前に出版された本が置いてある2階より上には、ほとんど人がいない。人がいない2階で、無意識のうちに1冊の文庫本を手に取っていた。本を手に取ったのは、本当に無意識の一瞬のことで、気づいたら書庫から本を抜き出していたというのが的確なところである。その本を手に取った理由をあえてつけるなら、その本が「コロンブスの卵」という名前で、ちくま文庫だったからだと思う。「コロンブスの卵」という題名は科学的・工学的なものを感じさせるし、ちくま文庫はとても読みやすい文字レイアウトだという感覚が意識の底に染みついていたからに違いない。

 その本を抜き出すと同時に本の頁を開いた途端、少し驚いた。開いた頁に、「徴兵忌避者としての夏目漱石」という考察が綴られていたからだ。「展望」の昭和44年6月号に掲載されたという、丸谷才一の「徴兵忌避者としての夏目漱石」がそこに載っていたのである。前から読みたいとは思っていても読むには至らず、しかし内容が気になり数日前にも関連記事をブックマークしたりした、それらの記事の源流がそこにいきなり出現したので、驚いたのである。

 私の友人で送籍という男が「一夜」という短編を書きましたが…
1905年 「吾輩は猫である」
 

 これまで、半藤一利や北村薫の著作など、漱石の名前の由来を巡る話として「徴兵忌避者としての夏目漱石」の名前を出したものを読んでいた。しかし、「徴兵忌避者としての夏目漱石」は、徴兵忌避のために漱石が北海道へ籍を移した(送籍)ことが、漱石の神経衰弱の大きな理由になっていて、徴兵忌避の自責という視点から眺めてみれば、「こころ」の不可解な結末(乃木大将が出てくる必然性)も納得できる、という内容だった。漱石という名前が、「負け惜しみが強い」という意味の「石に漱ぎ流れに枕す」だけでなく、「送籍」をも意味するのではないかというような内容は、「徴兵忌避者としての夏目漱石」では書かれておらず、あくまで「こころ」に至るまでの背景・構造解説に集約された内容だった。

 「徴兵忌避者としての夏目漱石」の内容はとても自然なものだっただけれど、それとは別の、自然ではない「漱石の名前の由来を巡る話」にも、やはり興味を惹かれる。夏目漱石が最初に漱石という名前を使ったのは、1889年5月の「七艸集」上であって、漱石が(徴兵忌避が可能な)北海道へと本籍を送籍したのは、その3年後の1892年4月であるから、夏目「漱石」という名前の第一の由来は「送籍」ではないのだろう。しかし、漱石の最初の小説「我輩は猫である」で、自分自身を「送籍」という名前で語っているのだから、やはり自身の送籍を意識していたに違いない。

 「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君を打ち留めた。
1905年 「吾輩は猫である」

 「籍」は名前と住所のデータベースだ。英語で言い換えれば、レジストリである。Windows ユーザが日々悩まされているWindowsレジストリなら、名前と値が階層構造で格納されたものだ。名前などを鍵(キー)にしてそのデータベースを呼べば、値など必要な全ての情報が得られるわけである。籍を移動することで固定されない浮いた状態にしてしまう「送籍」ということからは、「名前が無い・固定できない動的なもの」を連想してしまう。

 小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしとして暮したい希望を持つております
1911年

「無名関数」と「吾輩は猫である」  博士号拒否の際に自身を「ただの夏目なにがしでいたい」と書いた夏目漱石は、その「なにがし」の部分を一つの明らかな言葉で置き換えること、すなわち自身を名付けることはできなかったのではないか、と想像する。この「なにがし」は、博士号という冠・名前を軽く扱う表現上のトリックであると同時に、実は「なにがし」の部分は、漱石にはこのように表現することしかできなかったのではないだろうか。本名の金之助をここに入れることは、もとより忌み嫌っただろうし、それが「漱石」という号であっても、一つの固定した意味しか持たない限りは、ここで使うには至らなかったかもしれない。何かを書くことで自身を作っていくことはできても、その自身にふさわしい名前を付けることは非常に困難なことだったのではないだろうか。関数の中身を長く書き続けることはできても、その関数を「短い言葉」で表現することは不可能だったのかもしれない、とふと思う。

 私はその人をつねに先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。
1914年 「こヽろ」
(dekirukana9/registry)

2008-05-29[n年前へ]

「言葉を解釈する文章」と「眼で見る文章」 

 南伸坊の「ごはんつぶがついてます」中で宮武外骨に関して書いた文章を読み、「あぁ、そういうことなんだよなぁ」と感じた。

 一般に「頭がいい」とされる人は、説明のできる人であって、つまり言葉でわかっている人、耳の人のことです。
 ここで言っている「耳の人」というのは、「音を聞く器官としての耳」というよりは、「言葉を解釈する器官としての耳」というような意味合いだ。本当に素の文字の羅列としての言葉だけを受け取る器官というニュアンスである。
 南伸坊はこんな感じ方に対する説明を書く一方で、それとことなる「解る」をも並べ書く。
 論理をつみあげていって、何かを解(わか)るというのではなく、何かをじっと見ていたり、何かをそこらに並べて、一望していることで、解ることというのがあります。
 南伸坊は、「こういった感じ方をする人々は耳の人ではなく眼の人だ」と名付ける。
 さて、眼の人である宮武外骨は、文章も眼で書いています。……つまり書かれている「内容」ではなくて、書かれ方が「内容」であるというような意味合いにおいて、これは眼の文章なのです。
 「ごはんつぶがついてます」 p.192
 南伸坊が言う「眼の文章」というのは、レイアウト・タイポグラフィー・イラストレーション……といったものがすべて組み合わさった総合体を指している。
 さまざまなWEBページを眺めるとき、ページごとにスタイルも違っていて読みづらさを感じる時がある。もしかしたら、そう感じる時は「耳の人」寄りな頭になっているのかもしれない。そして、スタイルシートでデザインされたページを眺めていて、何だか色々なものの組み合わせが合わさった気持ちよさを感じ、何かを読み取ったつもりになりそうなときは、きっと、「眼の人」よりになっているに違いない。
 そんな、「言葉を解釈する文章(あるいは読み方)」と「眼で見る文章(あるいは見方)」があって、それはそれぞれ得意・不得意な分野があるのだろうと思う。
 論理を積み重ねるようなものが得意な方、曖昧模糊としたものを明瞭に浮かび上がらせることが得意な方、その両方の感覚を兼ね備えられれば良いのかもしれないが、現実それは無理な話だろう。せいぜい、その時の自分の読み方が「耳の人」寄りなのか「眼の人」寄りなのかを意識しておくことくらいしか、できないのかもしれない。

2008-08-13[n年前へ]

しりあがり寿の絵の上手さに驚く 

 しりあがり寿というと、西原理恵子との「画力対決」が面白かった。西原理恵子も「絵が下手で汚い」を「売り文句」にしつつ、とても上手く絵を描く。しりあがり寿も、西原理恵子と「画力対決」をするくらいなので、実にテキトーに絵を描くような印象が先行するマンガ家であるように思う。

 しりあがり寿の原画展に行った。紙の上の隅から隅までが、本当に見事にレイアウトされ、さらに緻密に線が描かれていてびっくりした。プロなのだから上手いのは当たり前としても、それにしても上手すぎる。小さく縮小された雑誌あるいはコミックで見るのと、原画とは本当に大違いだ。しりあがり寿は、実に細かな計算をしながら絵を描いていたことに驚かされた。

2008-11-03[n年前へ]

hirax.net::mobileと「後で読む」 

 携帯電話からhirax.netを眺めることができるように、Railsの携帯電話用コントローラ(アクション)を書きました。アクセスURLは http://www.hirax.net/mobile/latest です。右上のQRコードがそのURLになっています。ちなみに、 上記URLからは、(結局は、「自分で作った道具」で「自分が作るもの」と「クラス分け」コトバを集めた"Logo"クラスで書いたように、全部Contentクラスの継承クラスだ(という作りにした) というだけの理由なのですが) "insideout""Tech-logs""Logos""できるかな?"のすべてが同じように扱われます。

 画像などは送出しないようになっていますから、今ひとつ内容は伝わりにくいとは思います。そういうわけで、説明図が必要になるような内容は飛ばし読みし、つまりは、電車中でのお暇つぶしに、雑文が役に立てば幸いです。

 また、PCで「後で読む」用に、携帯電話用ページに(はてな)ブックマーク用のアイコンを設置しました。その際に登録されるURLはPC用のURLです。つまり、同じ記事に対するURLではあっても携帯電話で(その時)アクセスしているURLではありません。あくまで、後で画像付き・レイアウト付きで(つまりはPCで)読み直すためのブックマークだという判断です。



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