hirax.net::Keywords::「続ける力」のブログ



2004-12-03[n年前へ]

リンダリンダ 

 仕事が終わったその足で、リンダリンダ。「望みをかけてがむしゃらに頑張っているうちに、いつの間にか取り残されてしまった人達」の物語

「夢を見続ける力のことを“才能”と言うのだ」そういう意味では、今回の芝居は、戸惑いつつも、才能は決して枯らさなかった人たちの物語ですから

 終演後は最終の新幹線にも間に合わず、大垣行き最終夜行に乗る。列車に乗ってる頭の中は「はだしのままで飛び出して、あの列車に乗っていこう」「運転手さんそのバスに 僕も乗っけてくれないか」「終わらない歌を歌おう」というような感じのメロディが。
thirdstage.comR氏のクリエイター日記: 「リンダリンダ」行ってきました
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために終わらない歌を歌おう 僕や君や彼達のため

リンダリンダ






2005-06-19[n年前へ]

今日書いたメイル 「We Cn Wok It Out」 

今日書いたメイル 「We Can Work It Out」
 一昨日、メールを一通書きました。今の状態で最良のバランスであると思われる選択を書きました。悪く言えば、中途半端な選択とも言えるかもしれません。それでも、会社で雇用されている「サラリーマン」としては、少し踏み込んだ内容であるような気もします。

 私の学生時代の担当教授は、「メールを送った相手」の担当教授でもあります。その教授は大学院生と起業の二足のわらじを履こうとした彼に、「やるなら、その選んだ一つだけにして、そして頑張れ」と言って、大学院を中退させました。

 今のところ、私の立ち位置は「中途半端」というところにあるような気がします。だから、私自身は中途半端な位置に立ち続けようと思っています。その時点でのギリギリ中途半端な位置に、牛歩戦術のようにズリズリ移動し続けようと思います。私たちの担当教授が彼の力と成功を信じたように、私は私自身が中途半端な位置に立ち続ける力がある、と何とか信じてみることにします。

 Try to see it my way,
 Only time will tell if I am right or I am wrong.

jun hirabayashi

2005-06-20[n年前へ]

自分の力と自分の個性 

 色川武大の「自分の力で生き残るためには、ずば抜けて優秀であるか、絶対に取替えの利かないユニークさか、そのどちらかが必要」という言葉をひき、おれカネゴン先生が書く。

もしかすると個性とかユニークさというものは、生活が満ち足りたついでに空しさを埋めるためにカルチャースクールで習うような余興ではなく、優秀さという必殺の武器を持たない者が生き延びるために最後にすがらざるを得ない、非常に厳しいものだったのかもしれない。
あけてくれ - おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記 「優秀さという必殺の武器」(言い換えるならば、「力と速さを兼ね備えた能力」)を持たない人が持つ「個性という武器」というもののはやはり「容易には手に入れることができない(得るためには大いなる努力が必要な)力」ではないか、と思う。

 本流で勝てず、本流では生き残っていけない人が、どこか独特の場所で生き残っていこうとするならば、その位置に立ち続ける力がいる。その位置に価値があると信じ、その自分が立つ位置を高めていく力が必要だと思う。「盲目的にその場所に意味がある」と思いがちな「本流」と違い、「その場所に意味がある」と素直には言えない場所を選ぼうとするならば、そんな粘り強さが必要だと思う。

 たとえば、「自分の能力がほんの少し高まったからといって、本流に惹かれてしまわない強さ」や「自分の能力に不安を感じ、自分の立ち位置に不安を感じて、本流の裾へと流れてしまわない強さ」がいる。少し言い方を変えるならば、「(本流を選ばずに)典型的な何者かにならないという道」を選んだ場合には、「(その人の)能力」でなく「(その人の)存在意義」が問われることになるに違いない。そして、その(自らの立ち位置、存在位置を問う)辛い問いに答え続ける力、あるいは、その問いを軽く聞き流し続けるドン・キホーテのような奇跡的な力が必要になる。それは、もしかしたら「心の強さ」というようなものであるのかもしれない。そんな心の強さは、確かに「非常に厳しいもの」に違いない、と私は思う。とはいえ、きっとそんな「心の強さ」があれば、きっと人生は楽しいものなんだろう、とも想像してみたりする。
幅広い心を、下らないアイデアを、
軽く笑えるユーモアを、上手くやり抜く賢さを、
大げさに言うのならば、
きっとそういうことなんだろう。
誇らし気に言うのならば、
きっとそう言う感じだろう。

「イージューライダー」 奥田民生

2005-10-21[n年前へ]

「想像力」と「創造力」 

 今週、「すごい人たちと俺たちのような普通の人の違いって何だと思う」と訊かれた。その違いって一体何なんだろう?と頭が考えている時に、口は勝手にこんなことを喋っていた。

「想像力」と「創造力」という二つの力を兼ね備えている、ということかもしれません。
 何か「あたり前だけど、他の人は描けなかったこと」を頭の中に描いて(想像して)、そんなことを実際に作り出してしまう(創造してしまう)、そんな力をスゴい人たちは備えているのかもしれない。…それならば、その「想像力」と「創造力」を持っている人と持っていない人では何が違うのだろう?その二つの力を持つか否かは何によるものが大きいのだろう、と考え始めた瞬間に、口がこんな言葉を発し始めた。
「創造力」は「努力」という「力」の違いなのかも、と思ったりします…。
 私が見たことのあるスゴイ人たちはみんな努力していた。軽く読み飛ばしている本に、書き込みがびっしりされていたり、ポストイットが数えられないほど貼り付けていたりした。

 そして、もう一つの「想像力」に関しては、またしても口が勝手にこんなことを喋っていた。
「想像力」を狭める原因があるとしたら、それはきっと想像できたはずのことを勝手に無理だと思う自分自身なんだと思います。
 「想像力」というものが、「大きな何か」を思い浮かべる能力だとしたら、その能力を狭め失わせているものは自分自身かもしれない。もしかしたら自然に想像できたはずのことを、勝手に無理だとあきらめてしまう自分自身であったり、あるいは、「そんなことは無理だと思う他人」の意見に自分を合わせようとする自分自身かもしれない。

 そして、ふとこんな言葉を思い出す。
「夢を見続ける力のことを"才能"と言うのだ」そういう意味では、今回の芝居は、戸惑いつつも、才能は決して枯らさなかった人たちの物語ですから

2006-06-20[n年前へ]

自分の力と自分の個性 

 from n年前へ

本流で勝てず、本流では生き残っていけない人が、どこか独特の場所で生き残っていこうとするならば、その位置に立ち続ける力がいる。その位置に価値があると信じ、その自分が立つ位置を高めていく力が必要だと思う。「その場所の価値」を盲目的に信じがちな本流と違い、「その場所に意味がある」と素直に言えない場所を選ぼうとするならば、そんな粘り強さが必要だと思う。



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