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2008-05-07[n年前へ]

「100点を目指すのではなく67点の人生を認めること」 

 100点を目指すのではなく67点の人生を認めること
 鴻上尚史 「孤独と不安のレッスン」P.34

「他人から聞いた話は、直接本人に確かめるまでは信じない」 

 他人から聞いた話は、直接本人に確かめるまでは信じない。
  ジャイアント馬場 via 鴻上尚史「孤独と不安のレッスン」P.121

2009-05-07[n年前へ]

自分の選ぶ道は最善の道 

小山薫堂の「考えないヒント―アイデアはこうして生まれる (幻冬舎新書) 」から。

 人生って、選択の連続ですよね。だから迷ったり、何かうまくいかないことがあると、「これでよかったのか」と後悔しがちなんですが、僕は、どんなに失敗しても、どんなに大変なことがあっても、これが最善の道だと思うんです。

2010-05-07[n年前へ]

上岡龍太郎の「理」と「情」 

探偵ナイトスクープ」から。

 関西には、「探偵ナイトスクープ」という人気番組がある。(中略)'93年2月のある週の放送だった。事情があって道端に放置されている二宮尊徳の銅像があるのだが、それをきちんととしたところに再び置かれるようにしてもらいたい、との依頼が番組に送られてきたのである。
学校をいくつか回るのだが、どの学校にも断られる。トミーズ雅が不思議に思い、ある学校の校長に尋ねたところ、二宮尊徳は、「お国のため」というような思想が強制された戦前・戦時中の教育のシンボルであり、そのような悪用・悪影響の心配があるので、学校で引き取ることは出来ないのだ、と説明される。
 結局、どの学校にも断られるのだが、大阪市内のある保育園が引き取ってくれることになる。じつはこの保育園には、すでに一体の二宮尊徳像があったのだが、もう一体置くということにしたわけだ。依頼者のおばあさんも大変喜び、これで一応番組的には「一見落着」という感じなのだが、ところがスタジオの場面に切り替わると、上岡局長が、「探偵」の行動に苦言を呈する。
なぜ学校などの教育施設に置くことにこだわったのか。放置されて路傍に置かれているときでも、すでに賽銭のようなものが供えられていたという。それなら、商店街とか、個人の庭に置いてもらうという方法もあり、そうすれば、ずっとスムーズにいったのではないか。
 上岡は、おそらく彼個人の考えと感覚にもとづいて、この番組の作られる方針、そして視聴者に訴えたであろう「情」の部分に疑いを示し、彼一流の口調で切り捨てたのである。
 自分が信じる「理」にしたがって、テレビ的に作られる「情」を拒み断罪する。上岡龍太郎は、それが出来る芸人だった。おそらく上岡は、あの学校長の形式的な態度などは、もっとも嫌った人であろうが、そのことと、彼自身の考えや感覚にもとづいて何を信じるかということ、またテレビが強いてくる(大衆的と称されるような)「情」への安易な協力・同調を拒むこととは、また別のことがらだった、ということだろう。

2011-05-07[n年前へ]

リバーシブルな「A×B×A」という「やおい」の評価演算子 

 「”受け”と”攻め”の表記順」というタイトルのYahoo知恵袋での質問から。

 腐女子の「受け」「攻め」の表記って、一般的には「A(攻)×B(受)」ですよね。けれど、最近は「A×B×A」という表記も見かけます。これは一体どういう関係なんでしょうか…?どっちが「受け」でどっちが「攻め」なのかわかりません。
 「A×Bも可能だし、B×Aも可能だ」ということです。一般的にリバ(リバーシブル)と呼ばれるものです。表記的に「前者の関係」の方がメインで扱われる傾向が多いように思います。
(例)
 ■「A×B×A」→A×Bメインで、B×Aも扱う
 ■「B×A×B」→B×Aメインで、A×Bも扱う
 …なるほど、方角の呼び方とよく似ているんですね。たとえば「東と北の間だけれど、どちらかと言えば東寄り」を「東北東」と呼ぶような感じでしょうか。面白いくらい、言葉は進化していくものなのですね。
「福田X小泉と小泉X福田は全然意味が違うのー」
 何が何だか訳がわからない。じゃぁ、何か?小泉X福田だと小泉純一郎が総理大臣で福田康夫が官房長官だけど、福田X小泉だと福田康夫が総理大臣で小泉純一郎が官房長官になるとでも言うのか?政治の世界では、言う順番で総理大臣が決まるとでも言うのか?
「そう。ただ、ちょっと政治の世界とは違う世界かも〜。政界じゃなくて、やおい界ではー」

「やおい」の評価演算子

 あなたの身の回りにある「関係」をリバなやおいの評価演算子で示すなら、どんな例を挙げられますか?