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2009-09-25[n年前へ]
■「のりしろ」という、ムダではない「ムダ」 
瀧口雅仁「平成落語論─12人の笑える男 (講談社現代新書)
」から。
文化でいう「のりしろ」と言えばいいのか。ムダではない「ムダ」。あとになって切り捨てられるかもしれない部分があってこそ、芸というものの良し悪しは見えてくるのではと、最近強く思うのだ。
2010-09-25[n年前へ]
■「あぁ、これだけ損ができる」 
「明日に-」という言葉だけが書かれたページから始まる、北村薫「朝霧
」の中にこんな言葉があります。
「損をするのが分かっていても、出さなきゃいけない本って多いでしょう。本屋が稼ぐっていうのは、売れない本のため。一億入ったら、”あぁ、これだけ損が出来る”と思うのが、本屋さんなの」
「これだけ損が出来る」ということが「豊かさ」を作るのだろうか、と思うことがあります。もしかしたら、「損が出来ること」こそが「豊かさ」なのかもしれないとさえ感じることも あります。宵越しの金は持たない江戸っ子なぞは、さぞかし「豊か」に違いない、と考えるのです。
どんな"損が出来る”のだろう、とふと考えます。何のための損をしたい」のだろうか、と煎じて詰めて考えてみたりします。
2012-09-25[n年前へ]
■変わらない・変わるところもある「それこそが粘弾性のおっぱいならぬ人間」だ 
メトロノーム同期の話題の話題を、ここ数日見かける。そこで思い出した、2011年の春の終わりに書いた雑文。「オッパイ星人の力学 揺れるバストの集団同期 編 ~ 1億数千万の人々を14個のおっぱいに例えてみた」
おっぱいこそが人間を生み育てた原動力なのだから、おっぱいに育てられた人間の動き・人間関係の力学をおっぱいの力学で説明できないわけがないだろう!…題して「揺れるバストは均質である限りにおいて集団同期する、等質な揺れるバストはみな同じ方を向きたがる、の法則」だ!
当たり前だ!現象を説明するだけでは、それは科学かもしれないが、日本が誇る技術ではない。右手に現象把握、左手に「どうするべきだ」という改善策、そのふたつを兼ね備える、それが技術のあるべき姿だ!
多様性があって、変わらないところもあれば・変わるところもある。それこそが、粘弾性の「おっぱい」ならぬ人間というものなのかもしれないな。