2005-05-05[n年前へ]
■水戸黄門大学
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水戸黄門大学. 地理学部・社会学部・音楽学部・理学部・美術学部・物理学部・史学部・文学部・家政学部・人間科学部・外国語学部・特別公開講座…と、充実しまくり。ちなみに、理学部では黄門さま御一行の移動続度の時速を算出していたりします。えっ?平均時速30km…だって!? えぇ、GPSで進路研究だってぇ…!?~
2005-09-27[n年前へ]
■英語のための「筋肉トレーニング」
はてなの就業前「自主英語学習」の当番資料、英語のための「筋肉トレーニング」をここにも保存しておく。
2008-01-22[n年前へ]
■落語に「オチ」がある理由
サゲ(オチ)…というものは一種のぶちこわし作業なのです。さまざまのテクニックを使って本当らしく喋り、サゲでどんでん返しをくらわせて「これは嘘ですよ、おどけ話ですよ」という形をとるのが落語なのです。「落語の言語学」(野村雅昭 平凡社選書)を読み、一番新鮮に感じたのが「落語にはなぜオチがあるのか」という章だった。それまでに語られた話がストンと落ちて、その瞬間「語(かた)り」が実は「騙(かた)り」であることが明らかにされる「オチ(サゲ)」が存在しなければならない理由に、不思議に魅力を感じた。
三代目 桂米朝「落語と私」
「(落語の原名である)落とし噺」は本来おろかものや弱者の話である。おろかな言動や弱者ゆえの行為を、普通の人間が高所からながめることでワライが成立する。だから、そのままで終わったのでは後味が悪い。そこで、それがウソであったというタネアカシが必要となる。
野村雅昭 「落語の言語学」
2008-01-23[n年前へ]
■落語の「人情噺」にオチ(サゲ)がない理由
落語の原名である「落とし噺」に「オチ」がある一方、落語の「人情噺」は多くの場合、オチ(サゲ)がない。その理由を「落語の言語学」(野村雅昭 平凡社選書)はこう書く。
人情噺の終わりでは、(中略)聞き手はほっとする。それが全部作りごとだったとしても、聴衆はそれが事実であることを信じたいのであり、わざわざ種明かしされることを望みをしない。
NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」が、「立ち切れ線香」に入った。立ち切れ線香は人情噺だけれど、これ以上ないくらい悲しく、複雑であると同時に短く澄んだオチで、日常に戻る。
「わしの好きな唄、何で終いまで弾いてくれんのやろ?」「三味線弾かしません」言葉を、「芸者としてさまざまなものに縛られているから、三味線を(弾きたいけれど)弾けない」と聞いても良いし、日本語の「可能・受身・自発」は繋がっていて、決して分けることができない同一のものだ、とする聞き方もあるだろう。「線香が、立ち切りました」と繋がるというオチ、その関西弁を眺め直してみても、また深く感じることができる。たくさんの混じり合っているものを、味わいのもよい。
「もうなんぼ言うたかて、小糸、三味線弾かしません」
「何でやねん?」
「お仏壇の線香が、ちょうど立ち切りました」
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