hirax.net::Keywords::「知識」のブログ



2009-11-17[n年前へ]

「分かっていない」ことを「分かる」 

 仲正昌樹「知識だけあるバカになるな! 」から。

 勉強すればするほど、知的に謙虚になり、自分のことを反省的に振り替えることができるようになれる人ばかりであれば、何の問題もありません。自分の知的限界が本当に分かっていれば、次にどうすべきか自ずから分かってくるはずです。そういう人が「教養のある人」だと思います。
 ほとんどの人はその逆です。勉強して知識が増すほど、横着で傲慢になっていきます。横着で傲慢になると、自分の無知や考え違いを素直に認めることができません。
 本を読んで賢くなったような気がするとき、何冊かの本を読んでそれらの孫引きのような文章を書いてしまっている時(あぁ、今がまさにそうだ)、この言葉を繰り返し思い返さなければ、と思わされる。

 特に今の時代には、この本を定期的に繰り返し読みなおしたい。

2009-12-19[n年前へ]

「知っている」ことと「できる」ことは全く違う 

 齋藤孝の「なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書 1943) 」のあとがき、から。

 できていないのに、「わかっている」と言い続ける人には、進歩がない。「知っている」ことと「できる」ことは、全く違うことだ。そのあいだには深い川が流れている。

2010-02-21[n年前へ]

賢明になるほど、腰低く他人から学ぶ 

 過去を、そして遥か未来を見通した、イギリスの哲学者ロジャー・ベーコンの言葉から。”ベーコンは当時としては先駆的な思想であったが、研究者たちに聖書の原典の言葉、ギリシア語、ヘブライ語を学ぶことを求めた。

 人々が賢明になればなるほど、ますます、彼らは腰を低くして、他人から学ぼうとする。

ロジャー・ベーコン (Roger Bacon

2010-10-23[n年前へ]

「知ってる」と「できる」は違う。 

 「左手の親指が…アッ取れた!?」という手品の種明かしをした後に映し出される言葉。

「知ってる」と「できる」は違う。

Mr.マリック
 こういう言葉を見た後に、下の『この記事の「関連お勧め記事」を読む』という部分に自動で表示された記事を読むと、それが機械からのアドバイスであるにしても、少しありがたく思う。

2012-04-21[n年前へ]

高慢な賢者や謙虚な愚者は何処にもいない 

 「他山の石」を読みつつ、脈絡なく、「客観的な事実」と「自らの狭い主観」との違いの言葉を思い出す。

 「賢者愚に学び、愚者賢に学ばず」ということわざがあるが、どこをどう探し回っても、高慢な賢者や謙虚な愚者にはお目にかからない。愚かさは高慢と同居しているのが常である。

「客観的な事実」と「自らの狭い主観」との違い
 歴史をつかさどる女神クリオは、女神のうちで最も内気で控えめで、めったに人にその顔を見せなかったといいます。…歴史とは、内気で控えめでちょうど良いのではないでしょうか。
 私たちは日々の時間を生きながら、自分の身のまわりで起きていることについてその時々の評価や判断を無意識ながら下しているものです。また、現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去の事例からの類推を行い、さらに未来を予測するにあたっては、これまた無意識に過去と現在の事例との対比を行っています。
 このようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことなのだと私は思います。
 多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控えめで穏やかなものであるはずです。

無意識に行う「過去と現在と未来の重ね会わせ」
 愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。(チェーホフ)

愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。



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