hirax.net::Keywords::「十五歳の残像」のブログ



2009-04-16[n年前へ]

十五の頃と今と、なにが変わったと思いますか。 

 江國香織 「十五歳の残像 」から。

 十五の頃といまと、なにが変わったと思いますか、と訊いた。
「大人になったんじゃない?自分をごまかす、とか、許す、とか、そういうことは長けてきたと思います。
 「私はもどりたいもの。いまの心境でよ。いま会ってる人、いま好きな人の、若いころに会ってみたい」
と、ちょっと色っぽい声音で言うのだった。

「色とりどりに、話すひと――――おすぎさん」

2009-04-19[n年前へ]

「聡明なひと」 

 江國香織 「十五歳の残像 」から。

 長塚さんが聡明なひとなのはすぐにわかった。最初にした写真撮影で、カメラに向かう姿がとても美しかったから。
 そうなのだ。私たちは今の長塚京三さんを見る。それが全部。聡明なひと、というのはつまり、絶望の認識のあるひと、ということなのだろう。
 ただし、長塚さんの言葉にはとても肯定的な響きがあって、…私はちょっとほっとした。ほっとするのも変だけど。

「モノトーンのひと――――長塚京三さん」

2009-12-03[n年前へ]

江國香織が描く22人のインタビューイの物語 

 江國香織「十五歳の残像 」への感想から。

 よくあるインタヴュー集とはひと味もふた味も違うものになっています。それはたぶんインタヴューアーとインタヴューされる側の発言をそのまま載せるスタイルではなく、江國香織が自分でインタヴューしたものを元にして、あらためてひとつの物語として完成させているからだと思います。
彼女が意図してたのかどうかは分かりませんが、この本を読んでると、インタヴューされる側がみな、江國香織の小説の中の登場人物のように思えてなりませんでした。インタヴュー集と言うよりは、江國カラーたっぷりのひとつの物語って感じです。

 大人と子どもの間で揺れる、どっちつかずの少年時代。格好いい大人たちは、どんな15歳を過ごしてきたのか。江国香織の緩かなまなざしが、22人の思春期を鮮やかに甦えらせる。

2010-07-16[n年前へ]

人の心には「向き」がある 

 人の心には「向き」がある。向きをベクトルには方向がある。それを言い換えれば、ある座標(場所)から他の座標(場所)へと向かう量を定義するものだ。違う場所と違う二つの場所があって、重きを置く場所があって、そこから違う場所へと進もうとする「向き」がある、ということは面白いと思う。

 景色の良い場所で、遠くの青空と白い雲を見ながら、「生物と無生物」とか、「過去と未来」とか、とりとめのないことを話す。

 情緒と論理が過不足なく絶妙に混じり合い、不思議なほど心に小気味よく響くリズムで、江國香織は言葉を書く。

hirax.net::Keywords::「江國香織」のブログから。
 わかりやすく物事を説明できる人の話を聞いていると、多くの場合、その人たちが私たちにわかりやすく話をすることができる理由に気づかされます。それは、その人自身の中で、話題・議論の中身について「十分に物事が整理されている」ということです。そして、その人自身の中で「わかりやすい話」として十分な理解が必ずできている、ということです。つまり、「説明術」の根本にあるのは「理解術」なのです。

hirax.net::Keywords::「江國香織」のブログから。
 そういえば、「時間」というのものには、自然で必然な「ベクトル」があるのだったろうか・あるのだろうか?そんなことを、江國香織の言葉を反芻(はんすう)しながら、ふと思う。
 なるほど数学的思考をするひとだ、とすぐにわかった。言葉のひとつひとつに、必ず論理的必然性というか、原因と結果が備(そな)わっている。双六(すごろく)風に正確に一歩づつ先にすすめていく話し方だ。それも、聞き手がとりのこされないように丁寧に、きちんきちんと手順を踏んで。

  たゆまぬひと - 公文 公さん「十五歳の残像

2012-04-14[n年前へ]

大人が「手に入れるべきもの」「忘れないでいたいもの」 

 江國香織が22人のインタビューイに「子供のころの話」を聞き、その時代を振り返る大人の言葉を文章にした「十五歳の残像 」を読みつつメモした部分(hirax.net::Keywords::「十五歳の残像」のブログ)を眺め、ふと考えました。

 十五歳の頃、それから年を経た頃、時間が経っても同じ事も多ければ、少しの「違い」もあったりします。その「違い」は良いとも悪いとも…どちらとも言えない、「違い」です。良いとも悪いとも言えないものを時に身につけ、時に失ってきたとしたら、それら「両刃の剣」を両面から眺め、それらを忘れないでおこうと願い、十五歳の大人の言葉を眺め直してみました。

「どんどん矛盾していくよね」
「でも、表現するということはそういうことでしょう?イメージをある程度限りある形で強く打ち出していく、というのが表現ななんだから」

甲斐よしひろさん
 →矛盾を受け入れる。けれど、その矛盾を生み出す「限り・限界」を当たり前と受け入れない。

「無神経でいようと思ったら、いられるようになったことかな」

宮本文昭さん
 →無神経さを手に入れる。それと同時に、感受性を失わない。

「自分をごまかす、とか、許す、とか、そういうことは長けてきたと思います」

おすぎさん
 →自分をごまかす・許すという「弱さ」というか「強さ」を身につけると同時に、そうしない「若さ」を忘れないようにする。

 聡明なひと、というのはつまり、絶望の認識のあるひと、ということなのだろう。ただし、長塚さんの言葉にはとても肯定的な響きがあって、…私はちょっとほっとした。

長塚京三さん
 →「絶望の認識」をもちつつ、「肯定」をあきらめない。

 言葉のひとつひとつに、必ず論理的必然性というか、原因と結果が備(そな)わっている。双六(すごろく)風に正確に一歩づつ先にすすめていく話し方だ。それも、聞き手がとりのこされないように丁寧に、きちんきちんと手順を踏んで。

公文 公さん



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