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2007-12-05[n年前へ]

「ヒューマンな星飛雄馬」と「プロ野球と草野球の球場の向き」 

 巨人の星の主人公、星飛雄馬の「飛雄馬」という名前は、「ヒューマン(human)」にかけたものだと、聞いた。 夕日を背にしたピッチャーが、バッターに力一杯球を投げる。 そして、そのスコアボードの向こうに輝く夕日を背景に滝のような涙を流しながら泣く。 感情豊かに泣き笑いする、星飛雄馬はまさにヒューマン、人間そのものに見える。 野球場という舞台で繰り広げられる「巨人の星」は、まさにヒューマン(人間)ドラマだ。

 ところで、そんなヒューマンドラマで目にした、「夕日を背負ったピッチャー・スコアボードの上に輝く夕日」といった風景は、実際にはほとんどないという。 そんな配置の球場であれば、バッターボックスに立つバッターの視界に西日が入ってしまい、プレーに差し支えるから、だ。 だから、午後~夜に競技が行われることが多いプロ野球の球場では、西南方向にスコアボードが位置することは(ほとんど)ないらしい。 ということは、バッターからピッチャー方向へ線を引いたとき、西南西方向以外を向くように作ってあるということになる。

 そんな話を読んだとき、ふと思ったのが「草野球用の球場」はどういう作り・配置になっているんだろう?ということだった。 プロ野球と違って、草野球は早朝~午前に行われることが多い、と聞いている。 だとしたら、草野球用の球場は、バッターからピッチャーへ向かうベクトルが東南東方向以外を指すように作ってあるのだろうか。 それとも、単にその場所の固有の条件に応じた向きで作ってあるのだろうか。

 野球用スペースがある河原近くを通るたび、そんな疑問が頭の中をクルクル回り、時計の時針と球場と太陽の向きを考える。誰もいない野球場を眺め、太陽を見上げ、腕時計の針の向きに目がいく。

スコアボードと方位花形満の名前の由来星飛雄馬巨人の星巨人の星野球場






2009-02-13[n年前へ]

「同じだけの長さのエピソード」と「感情のエントロピー」 

 香山リカの「乱読パラダイス」を読んで、読書ノートに書き写したのが「同じだけの長さのエピソード」という章だ。

 世の中には、エピソードを語ることでしか伝えられない感情もある。
 この章では、香山リカの「小さな物語」が書かれ、そしてそのエピソードから表される感情は、そこに込められた情報は、そのエピソードの長さを介してしか伝えようがないのではないか、ということが書かれている。
 しかし気持ちがわかる、とは本来、こういう話をすることでしか人に伝えられないものではないか。
 もしかしたら、そのエピソードの長さ、というものが、気持ち・感情の「情報量」なのかもしれない、とふと思う。ということは、感情や気持ちを伝えるためには、それに至るまでの時間と同じだけの時間が、結局の所必要となるのかもしれない。そして、それは、実際問題としては得られそうにないものでもある。

2009-06-26[n年前へ]

「3年B組金八先生」での杉田かおる 

 「しゃべくり007」を観ていると、武田鉄矢が「3年B組金八先生」の話題で、杉田かおるの演技に関して、こんなことを言っていた。

 杉田かおるはねぇ・・・ホントに上手かったよぉ。だって、たじろいだもん。ツーっと入ってきてね。
「赤ちゃんが動いたんです」
 これは、1979年冬から翌年の春にかけて放映された「3年B組金八先生」パート1の「15歳の母」中の1シーンだ。妊娠した(役演じる)杉田かおるの演技に対する言葉だ。

 「3年B組金八先生」での杉田かおるの演技について、武田鉄矢がかつて語った 、こんな言葉がある。この言葉は、杉田かおるの演技をとてもリアルに表現していて私の記憶にずっと記憶に残っている。それは、パート1から時を経て、1995年から放映されたパート4での話だ。

 パート4では雪乃(杉田かおる)は、息子の歩がいじめに遭って「もう学校には行かせない」って金八を責めるよね。あのときの演技には、父親は保(鶴見辰吾)なんだけど、「あなたが産めと言ったんじゃない」という、金八に対する男と女の感情、雪乃の混乱まで盛り込まれていたよね。
 この言葉を読んで、なるほど脚本・演技というものは実にリアルに物事を描き出すものなのだな・・・と驚かされた。

 金八先生のロケ地の多くは、北千住駅から京成関屋近くだ。「3年B組金八先生」の放映開始から、20年以上経った頃、インラインホッケーの試合をしにその辺りに頻繁に行っていた頃、テレビの中で眺めたような風景を見つけることがあった。そのたび、いつもテレビを観ながら感じたことを思い出し、「時の流れ」ということを、心から不思議に感じたものだった。人は、若い頃の記憶を、一体どれだけリアルに引きづるものなのだろうか。

思いのままに生きられず 心に石の礫なげて
自分を苦しめた 愚かさに気付く
私は悲しみ繰り返す そうだ人なんだ

人として人と出会い 人として人に迷い
人として人に傷つき 人として人と別れて
それでも人しか 愛せない

2009-08-09[n年前へ]

「後悔しない意思決定」を決める「合理性」と「非合理性」 

 「後悔しない意思決定 (岩波科学ライブラリー) 」を興味深く読んだ。この本には、なるほどと強く納得させられる部分と、何かひどくもの足りなく感じる(説明が欲しくなる)部分、そんな相反する2つの「感じ」をともに強烈に感じさせられた。

 はじめに、「ひどくもの足りなく感じる(説明が欲しくなる)部分」を書けば、たとえば、こんな部分

 本書は合理的とは何かを問い、合理的に生きることによって後悔しない意思決定を推奨する本である。
 本書では、人は合理的であることを前提としています。そして合理的であろうとすれば主観的期待効用モデル(「最適な決定は、効用の値をもっとも大きくする選択肢を選」という考え方にもとづくモデル)にもとづいて決定すべきであると主張しますが、・・・
という辺りだ。こういったことを前提として、「合理的に」本で書かれていることがらを読み進めていけば、当然のように納得できる。けれども、人が「どうしてか」少なからず合理的に考えられないことがある以上、上に挙げたような前提・言葉を受け入れるために必要な「何かワンクッション」が足りないようにも感じてしまう。

 だから、たとえば、本書冒頭の言葉、

 本書は、意思決定をする際にさんざん悩み、しかも、決定した後で悔むような人のための指南役を目指すものです。
に惹かれて頁を読み進めていくとき、「合理的に考えるとこのようになる」といった解説・解決策を提示させられたとしても、論理的でない部分で(端的に言えば感情的な部分で)胃にもたれてしまうのだ。合理的に考えれば納得できるのだだろうけど・・・と感じてしまい、なかなか納得した気持になれないのである。

とはいえ、「合理的に考えるべし」ということを「公理」として受けれ入れて、この本を読むならば、示唆に富むこと/アドバイスが実にわかりやすく書かれている。だから、論理的にはとても納得できる・役立つだろう本で、人に勧めたくなる。ただし、非論理的な部分(のために足りない何か)を補う「あともう一冊」を適当に選びたいとも思う。・・・たとえば、それはどんな本だろう?もしかしたら、たとえば、それは小説家のエッセイ辺りだったりするのだろうか。



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