hirax.net::Keywords::「斎藤美奈子」のブログ



2009-01-16[n年前へ]

「オートバイ小説」と「ハッカー小説」 

 妄想半分に、「ハッカー小説」は「オートバイ小説」と似ているのかもしれない、と思うことがあります。「クルマ小説」でなく、あくまで、「オートバイ小説」です。バイク乗りたちは、どのバイクに乗るか・好きかと、とてもこだわりますが、そんな「オートバイ小説」に「ハッカー小説」に似ている、と思うのです。

 斎藤美奈子は「文学的商品学」の中で、オートバイが主題の小説は、文学的商品学

  • 男主人公がバイクを通じ成長する「ザ・男の成長譚」
  • 女主人公が二輪免許と引き替えに男を捨てる「ザ・女の自立譚」
の2つにまとまる、と書いています。そして、オートバイを「単なる道具」ではなく「人格を持ったもの」であるかのように描写し、さらに主人公がバイクに乗った瞬間には「人車一体」に同化してしまう。というのです。

 少し面白いのが、タイヤが2つ増えた「四輪」小説だと、四輪車=車は単なる「人格を持ったもの」でなく、「(男性にとっての)女性のメタファ」になってしまう、と斎藤美奈子は言うのです。たとえば、こんな具合に。

正直なところ、ぼくはあのお転婆なイタリア娘、アルファ・ロメオとのつきあいで、くたびれ果てていたのである。

五木寛之 「雨の日には車をみがいて
しかし、四輪小説と違って、バイク小説の場合には、オートバイは「人格を持ったもの」として描かれ「人車一体」になることはあっても、「(男性にとっての)女性のメタファ」にまではなっていない、というのは実に興味深いところです。

 コンピュータ管理者の仕事に就いた天文学者が、コンピュータへの侵入者を追いかけていく「ハッカー小説」である「カッコウはコンピュータに卵を産む」を読んでいると、ハッカーたちは実に「コンピュータ」にこだわります。その結果、コンピュータは単なる道具でなく「人格をもったもの」に見えてきたり、さらには、人格どころか「神格」をもった神・宗教に見えてきたりするのです。

 コンピュータ侵入者は"ps -eafg"と入力した。
デイヴはにやりと笑った。
 「バークレーUNIXには、これ(プロセスを表示する"ps"コマンドにfフラグ)はない。fはAT&T/UNIXで個々のプロセスのファイルを表示するコマンドだ。バークレーUNIXはこれを自動的にやってのけるから、fフラグは必要ない」
「コンピュータ侵入者はバークレーUNIXを知らない。旧世代のUNIX信者だ」
「異教徒だ」

 デイヴはコマンド中のただ1文字をもって西海岸の全コンピュータ人口を無罪放免にした。
 どうでしょうか?ここで描かれるコンピュータOSは、単なる道具でなく、まさに神格を持つなにものかに見えてきます。そして、ハッカーたちは、それぞれのバイクならぬコンピュータの中に一体化していくのです。ね?「ハッカー小説」は「オートバイ小説」と似ている、と思いませんか?

 さらにバイク小説との比較を続け考えてみていくと、男性ハッカーがコンピュータを通じ成長する「ザ・男の成長譚」も実際すでにたくさんありそう(書かれていそう)です。ただ、女主人公がハッカー免許と引き替えに男を捨てる「ザ・女の自立譚」がすでに書かれているのか?それを果たして女性が魅力的に感じるかどうか?ということに、頭を捻り・悩んでいるのです。

2009-01-24[n年前へ]

斎藤美奈子の「本の本」 

 本の本―書評集1994-2007  人はパンのみにて生きるにあらず、というけれど「生きることを支えるパン以外のもの」の一つが本だと思う。本を読んでいくことで感じること・得られることはとても多い。

 本を読むことで得られるものはとても多いけれど、その一方、本自体の数もとても多い。だから、本屋や図書館でどの本手に取ろうか・・・と思い悩んでしまう。そんな時、誰かの書評があると、あまり悩まずにその本を手に取り読むことになる。

 そういえば、私は斎藤美奈子の書評を頼りにして、そしてその書評を念頭に置きながら本を読むことが多い。

 本を読む行為は基本的に孤独です。しかし、そこに一篇の書評が加わると、世界は何倍にも膨らみます。同じ本を読んだはずなのに、あまりの受け取り方の違いに驚いたり、その本の新しい価値を発見したり、ときには書評のおかげではじめて意味がわかったり。
(中略)
 もしこういってよければ、書評は「読書を立体的にする」のです。

斎藤美奈子 「本の本」
 自分とは違う感覚で、自分よりも圧倒的に多い読書量にもとづいた書評は、自分の読書とは異なる見方を教えてくれる。確かに、書評は読書を立体的に眺めることを可能にしてくれる。

 上に引用した文章は、斎藤美奈子の「本の本―書評集1994-2007」の最後に書かれた節だ。この本は単行本サイズなのに6cmの厚さを持っている。そして、厚さに比例したたくさんの本への書評が書かれている。それは、まるで、たくさんの本が詰まっていて、親切丁寧で、だけどサイズは小さな魅力的な図書館のようだ

2009-01-25[n年前へ]

久世光彦の書評 

 本人がどのように考えているかはわからないけれども、斎藤美奈子の書に関する雑文は女性的だと思う。そして、久世光彦のそれは男性的だと思う。女性的・男性的と言っても、それは、たとえば男性的=マッチョというような意味ではなくて、むしろそれとは全く逆の意味だ。つまり、斎藤美奈子は鋭く強く、久世光彦の文章は繊細で後悔交じりの匂いがする。

 人のことは言えないと、いつも自分を戒めながら、ついつい面白くて<書評>を書いて十年になる。人のことを書くのは面白いことなのだ。会ったこともないのに、その人と親しくなれたような気がする。ほんの少しだが、その人の肌に触れたようにも思う。だから私は、解説はしない。筋も書かない。私は<書評>で、その人に熱心に話しかけるだけだ。ーそれでもどこかで、余計なお世話をやいているような、後ろめたい気持ちが残るので困る。

久世光彦 「美の死―ぼくの感傷的読書

2009-01-27[n年前へ]

斎藤美奈子「話を聞かない男、地図が読めない女」 

   斎藤美奈子の「趣味は読書。」 の188頁、「話を聞かない男、地図が読めない女」に対しての感想から。

 この手の本は、思想的には必ず保守で、論旨は必ず荒唐無稽だ。もちろん、だから売れるのである。人々の価値観は概して保守的だし、正しい科学の知識もお呼びじゃない。彼らが望んでいるのは「あなたの性格はこう」「あなたの人間観家はこれでうまくゆく」とだれかに力強く断言してもらうことだけなのだ。で、ある人は霊能者のもとへ走り、ある人は占いに凝り、ある人は疑似科学に救いを求める。20世紀が科学の時代だったなんて、信じられない。勝利したのは、科学の装いを凝らした迷信だけだったんじゃない?

斎藤美奈子 「趣味は読書。」 p.188 「話を聞かない男、地図が読めない女」

2009-03-09[n年前へ]

「自分は壁の側に立つ」と表明する人が居るだろうか 

 週刊SPA! 3/17 田中康夫の東京ペログリ日記 vol.236 より。

 もし硬い、高い壁と、そこに投げつけられて壊れる卵が有るなら、たとえ、壁がどんなに正しく、卵がどんなに間違っていても、私は卵の側に立つ。

村上春樹 「壁と卵」スピーチ

 こういう場合に「自分は壁の側に立つ」と表明する人が居るだろうかという事だった。作家はもちろん、政治家だって「卵の側に立つ」と言うのではないか。卵の比喩は格好いい。総論というのは並べて格好いいのである。

斎藤美奈子  「かっこう悪い卵達」 朝日新聞・文芸時評 2009/2/25



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