hirax.net::Keywords::「自分」のブログ



2010-02-17[n年前へ]

諺(ことわざ)・名言が響かす心地よいリズム 

 諺(ことわざ)・名言には心地良いリズムがあり、そして、何度繰り返し聞いてみても辿りつくことのできない奥深さがある。

Easy to say, hard to do. Saying and doint are two things.
 金言とそ実例が繰り返されるような、そんな文の連なりを読んでいると、魅力ある山道を歩き・景色を眺めているような気分になる。
 言うは易く、行うは難し。
 「案じるより団子汁」「好きこそ物(もの)の上手なれ」「古きを温(たず)ねて、新しきを知る」…七五のリズムが心地良く体と頭の中に強く響いてくる。

 規則正しく、しかし同時に緩急も備えた文章は、究極かつ至高のショートショート集なのかもしれない。

 (ギリシア哲学のターレスに、ある青年が聞いた)「では、いちばん易しいことは?」彼は片目をつぶってニヤリ一言。「他人に忠告することだよ」

2010-02-25[n年前へ]

君子は己を省みる。人を毀(そし)る暇(いとま)あらんや。 

 高橋秀治「意味から引ける名言名句辞典 」から。

 君子は己を省みる。人を毀(そし)る暇(いとま)あらんや。

伊藤東涯

2010-03-14[n年前へ]

愛とは、見つめ合うことでなく、同じ方向を見ることである。 

 角田光代の「今、何してる? 」から。

 (フランスの作家、「星の王子さま」の作者、サン・テクジュペリの言葉から)「愛する、それはお互いを見つめあうことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである。

 ふと、「お笑いパソコン日誌」に書かれていた、こんな言葉を思い出す。

 仮に、同じ流星を遠く離れた恋人同士が見ることができたとしても、悲しいことに、たいていは違うところを見ているのである。
 それは、同じ場所で同じ映画を見ても、必ず違う部分を見ているのと似ている。われわれは他人とまったく同じものを見ることができない。残念だが
 同じ方向を見ることはできないのかもしれない。だったら、せめて同じ方向へ、前へ、進むことならできるのだろうか。それとも、その「前方」は、やはり二人違う方向を向いているのだろうか。違う方向を向いているとしたら、それはただ離れていく方向なのだろうか、それとも、現実世界でよくあるように、やがてまたどこかで交(まじ)わったりするものだろうか。

 ここでは引用していないが、サン・テクジュペリの言葉を導入部分に使いつつ書かれた、角田光代の文章はやはり魅力的だ。変なたとえだが、それは久世光彦が書く、向田邦子の魅力に、少し、似ているような気がする。

2010-03-19[n年前へ]

同じものを見るという「奇跡」と「幻」 

 角田光代の「今、何してる? 」から。

 親とかきょうだい、もしくは恋人は友達と、とても親密なある一日を過ごしたとする。(中略)その一日について、ともにすごした人と照合してみると、びっくりするほど記憶が違う。私は空を横切る飛行機を見ていて、彼/彼女は散歩中の巨大猫を見ている。私はサテンで男女が大喧嘩しているのを見ていて、彼/彼女は行列のできるラーメン屋を新発見している。
 だれかとともに一日を過ごして、何から何まで同じものを見、うりふたつの記憶を持つという奇跡のようなことは、きっとある。そして私は気づく。恋人でも友達でもない、未知のだれかとも、同じものを見、同じ記憶を共有することは可能である、と。

 繰り返し、そんな「奇跡」を夢見ます。そして、いつもこの言葉を反芻(はんすう)するのです。

 仮に、同じ流星を遠く離れた恋人同士が見ることができたとしても、悲しいことに、たいていは違うところを見ているのである。
 それは、同じ場所で同じ映画を見ても、必ず違う部分を見ているのと似ている。われわれは他人とまったく同じものを見ることができない。残念だが。

お笑いパソコン日誌

2010-04-18[n年前へ]

「さがしもの」は何ですか?見つけにくいものですか? 

 何年か前、「自分探し」が流行った。「自分」というものがどういうものなのか、よくわからないままに、そんなよくわからない「自分」というものを探すブームがあったような気がする。

 何かを求める人がいるなら、何かに対するニーズがあるのなら、つまり、需要があるのなら、そこに供給者が現れる、というのがよくある状況だと思う。

 自分を探す人が数多くいるのなら、「(その人たちが求める)自分」を、よりどりみどりに並べ売る、そんな供給者が現れるに違いない。そんな「自分」を売る店は、さぞかし繁盛するに違いない。「自分」というものは、きっと売れる「商材」に違いない。

 …と、そんな風に考えてみると、本屋に並ぶ自己啓発本は、まさにそんな「(その人が求める)自分」を売る本であるかのように思えてくる。本屋に並ぶ本の多くは、自分探しをする人のために、「その人が求める自分」を提供するための本なのかもしれない。それを、言い換えるなら、本屋で私たちがそんな本を手に取るとき、無意識のうちに(かつて流行った)「自分探し」をしているのかもしれない。

 「自分探し」ブームの頃、同時に、「自分隠し」ブームも流行っていたような気がする。「自分隠し」ブームというものがあったとしたなら、そこには一体どんなものを供給するものが現れるのだろう。何かを隠す森のようなものを供給するものが現れるのだろうか。

 それとも、供給者でない何かが、そこでは必要とされるのだろうか。



■Powered by yagm.net